第2回:テレビが家にやって来た

京都の伯母宅から予定を切り上げて帰宅した私を待っていたのは早川電機(現シャープ)製の14インチのブラウン管に映し出されるモノクロ映像だった。
当時(昭和30/1955年)のテレビ(受像機)のメーカー別シェアは早川電機17%、松下電器15%、八欧電機(現富士通ゼネラル)13%だったという。上位3メーカーすべてが日立や三菱などの名門企業ではないのは何故か。大手が新メディア・テレビの将来性に対して懐疑的であったこと、さらにテレビの主要部品であるブラウン管は米国から輸入し、極言すればメーカーは木製の箱だけを作ればよかったことが上げられる。さらに終戦直後の就職難で外地から復員してきた優秀な技術者を無名メーカーでも集めることが可能だったからである。
わが家は兵庫県の尼崎市と西宮市の境を流れる武庫川の尼崎側の土手下の社宅だった。対岸にフランク・ロイド・ライトの弟子(遠藤新)が設計した西の帝国ホテルといわれた甲子園ホテルが臨まれた。大阪の堂島川縁の倉庫敷地に急増された棟割り長屋の社宅から、ここに引っ越した頃(昭和31/1956年)、同ホテルは米軍に接収されており、屋上に星条旗がはためいていた(現在の所有者は武庫川女子大/登録有形文化財)。
社宅は30世帯くらいの社員家族が暮らしていた。社宅のレベルは社員の役職とリンクしていたので、もちろん支店長宅は一番大きく、庭には築山と松の大木が植わっていた。この家には当然テレビがあり、何度か見せてもらった記憶がある。関西地区に民放テレビがまだなかった(開局は昭和31/1956年)ので、NHKの番組だったはずだが何を見たかは記憶にない。それよりテレビに電圧器が接続されていたことの方が印象に残っている。
うちに来たテレビは、この社宅では2台(2番)目だった。多分、父は支店のナンバー2だったのだろう(家屋も庭もそれなりに立派だったし…)。社宅の子供たちは閾の高い東京人の支店長宅でのテレビ視聴なぞ望むべくもなかったが、棟割り長屋時代から親しんでいるわが家は気兼ねがない。夕方に放送されるマンガ番組―ナショナル(松下電器)の提供で力道山のCMが流れていた―の時間になると、外で遊んでいた子供たちは一斉にわが家のテレビの前に集まったものだ。

866台からの出発~にっぽんテレビ事始め

日本のテレビ放送が始まったのは昭和28(1953)年。NHK(東京)が先鞭を切り、半年遅れで民放の日本テレビ(NTV/日テレ)がスタートする。NHK開局時に日本全国にテレビ受像機はたったの866台しかなかった。テレビ(受像機)が普及しないのには理由がある。大卒一流企業の初任給が1万円、中堅で3万円程度の月給だった当時、14インチのテレビが17万円した。個人で購入できる日本人は少数だったからである。
日テレの創業者である読売新聞の正力松太郎は、この苦境を突破するために今や伝説となっている街頭テレビを盛り場に設置するという奇策を編み出す。1台55万円したという米国RCA製の27インチの受像機20台を都心の盛り場に設置。順次増設し、最終的には日テレの電波が届く関東一円220ヵ所に街頭テレビを出現させた。
正力が身銭を切ってまで受像機の設置を急いだのは、戦後初めて日本に登場した民間放送という事業体の収入は、すべてスポンサー(広告主)からの広告料で成り立っていたからだ。実は日本の民放はテレビ放送の2年前の昭和26(1951)年、民放ラジオ放送が始まっていた。広告代理店・電通を現在の世界一の業態に導いた大本を築いた、広告の鬼・第4代社長の吉田秀雄は、民放ラジオの開局には大賛成(吉田自身が設立の立役者)だったが、テレビには大反対。その理由は受信(像)機の普及の有無。戦前からNHKの放送が全国津々浦々までいきわたっていたラジオのそれは1000万台。ラジオ東京(現TBS)は開局10カ月で全ラジオ番組にスポンサーが付いたという。かたやテレビはゼロからのスタートだった。しかし、物狂いのようにテレビ事業に突っ走る正力は、吉田の忠告を無視して強引に日テレを開局させる。

伝説のプロレス中継

街頭テレビ戦略は大成功を収める。日テレ開局の2カ月後、白井義男vsダド・マリノ(米)の世界ボクシングタイトルマッチが生中継され、新宿西口の1台の街頭テレビには2000人の群衆が押し寄せた。スポンサーのアサヒビールが実施した勝敗予想クイズの応募(電報でなされた)は、テレビ視聴者からがラジオの11倍という、この新メディアの底知れぬ力を予感させる結果となった。
さらに翌29(1954)年2月19日、国技館で行われた力道山と昭和の三四郎・柔道家の木村政彦vsシャープ兄弟のプロレス試合が行われた。これを放送する有楽町(新橋駅西口説もあり)の街頭テレビの視聴者は2万人といわれ、広告メディアとしてのテレビの快進撃が始まるのである。
テレビの普及台数は放送開始の翌年(昭和29/1954)に5万台だったものが、わが家が手にした年(昭和33/1958年)の末には198万台まで伸びでおり、14インチの価格も7万円(昭和32/1957年)までに低下していた。(つづく)

千葉 廣太郎

外資系広告代理店に長年勤務し、その後フリーのプランナー&大学で広告論等を講ず。現在は隠居仕事として某大で近代文学を履修・研究中。