第4回:政治家はメディアを支配する

今はなき大阪テレビ(OTV)

放送局は地球上の有限なる電波を使用するので、使用電波(周波数)割り当てはスイスのジュネーヴにあるITU(国際電気通信連合)という世界的な専門機関が担っている。各局にはコールサインという呼び出し符号が付けられ、日本の放送局は頭に必ず「JO」が付いている。業界でフジテレビのことを「CX」というのは同局のコールサインがJOCXだからだ。フジと同年開局のNET(現テレビ朝日)はJOEX、日本初の民放テレビ局・日本テレビはJOAX。JOの後のアルファベットは申請が早い順なので、JOBXは2番目の民放テレビ局であるTBSのコールサインと思われても仕方がない。
しかしTBSのそれはJOKR-TVなのだ。なぜなら同局は放送電波の許認可を昭和26(1951)年にラジオ局として済ませているからで、ラジオ東京(KR)のテレビということでKRTと東京放送と社名改称する(昭和35/1960年)まで略称していた。
では、日テレとフジの間のJOBXのコールサインを持つテレビ局はどこなのか。これが西日本で初めて(昭和31/1956年開局)の民放テレビ局・大阪テレビ(OTV)なのである。 
OTVは朝日新聞と系列のラジオ局・朝日放送(ABC/昭和26/1951年開局)と、毎日新聞およびその傘下の新日本放送(NJB/開局はABCと同時期)の2系統の4社によって設立されたので、以後、複雑な経緯を辿る宿命を負った放送局だった。
それが如実に現れたのがニュース番組だ。日本のテレビ局、とくに草創期の局は報道部門が脆弱だったので、民放局の多くが新聞社(ほとんどが主要株主)に依存していた(NHKは戦前の大本営発表を大反省。独自取材する放送記者の育成に取り組んだ)。故に「●●新聞ニュース」のような番組が当たり前で、例えば日テレでは開局時から系列の関西地区局・読売テレビができる昭和33(1958)年8月まで「読売新聞ニュース」を放送していた(その後、タイトルから「新聞」は消えるが新聞社発のニュース番組は20世紀の間は制作されていた)。日テレの場合、新聞社が1社で問題ないが、OTVは2社なので「朝日新聞ニュース」と「毎日新聞ニュース」がテレコで放送されていた。
OTVというテレビ局は昭和34(1959)年3月に毎日新聞系のNJB新日本放送が抜け、毎日放送(MBS)と改称するとともに新規テレビ放送を開始。OTVはABC朝日放送に一本化され、朝日・毎日のテレコニュースは解消する。故に私はこのテレコニュースを半年強しか見ていない筈なのに、鮮明な記憶としてどういうわけか残っている。

剛腕・田中角栄郵政大臣

写真:近現代PL/アフロ

昭和32(1957)年、田中角栄は39歳の最年少で第一次岸改造内閣の郵政大臣に就いた。時あたかもテレビメディアの勃興期。東名阪の広域圏以外は県域でのテレビ局設置免許基準だったので、各地ではこれからのメディア・テレビのオーナーたらんとする事業家や地方名士が申請に殺到していた。
この年放送中のテレビ局数は16局(NHK11局/NTV,KRT/OTV/CBC<名古屋>/HBC<北海道>)。関東のフジとNETが許可済みで、他の地区に153もの新局志願者が手を挙げていた。監督官庁は電波行政を米国流の独立機関(FCC)に託するGHQ案から、明治以来の官僚(庁)主導を死守した(旧)郵政省だった。
角栄は4ヵ月の間に43局(うちNHK7局)に対し免許を交付。角栄以前はどこか1社に決めて恨みをかうことを恐れたり、各申請者のバックに居る大物に配慮したりで許認可が棚ざらしにされていた。これに対して角栄は申請者を一同に集め、各グループ15~20分の短時間で一本化調整(株や役職の配分等を談判・指示・決定)を行ない、調整過程で各地の有力者に恩を売り、貸しをつくっていったといわれている。

田中角栄の政治戦略は「日本列島改造論」(昭和47/1972年)に代表される泥臭い土建屋政治と見做されがちだが、このテレビ局への免許交付行政で発揮されたごとく、未来志向の政治手腕も兼ね備える、まさに「今太閤」、「コンピュータ付きブルドーザ」の名に恥じぬ昭和のリーダーであった。
政治家の得意技は利権の交付だが、土建で代表される公共事業とテレビ事業とは大違いだということを当時認識していたのは角栄だけだった。道路や箱物工事は一度だけしか利益を生まないが、テレビ事業は半永久的に生み続ける。さらに選挙民への影響力は計り知れない。免許をもらったテレビ事業者は、それを与えてくれた政治家に「恩」を感じ、貸しを返そうとする筈。角栄は全国各地にそんな味方(メディア)を作り出した。天才的な政治センスといわざるを得ない。
やがてテレビ局は新聞社毎に系列化されていくことで、間接的に新聞に睨みを利かす、メディアを意のままにコントロールする手法を編み出したのも田中角栄だった。(つづく)

千葉 廣太郎

外資系広告代理店に長年勤務し、その後フリーのプランナー&大学で広告論等を講ず。現在は隠居仕事として某大で近代文学を履修・研究中。