第5回:ミッチーブームと「波取り」記者の登場

新聞記者の仕事は記事を書くことだ。しかし、ある時期記事を書かない記者が新聞社には存在し、なおかつ大手を振って社内外を闊歩した。
昭和34(1959)年のテレビ受像機の売上げは1200億円で、テレビ広告費は238億円。雑誌(80億円)、ラジオ(162億円)のそれを抜いていた。日テレ開局時のテレビ広告費は1億円といわれているので、たった7年でテレビは大躍進したのである(因みに同年の新聞広告費は618億円)。
この躍進を喚起したのは知られるように皇太子(現上皇)のご成婚。前年の晩秋、婚約が発表され、お相手が平民出身の正田美智子さん(現上皇后)ということで、いわゆる「ミッチーブーム」が巻き起こった。
そのブームは昭和34(1959)年4月10日のご成婚でピークに達し、テレビ受像機の普及台数は、わが家が買った前年の2倍以上の450万台を記録。草創期は吉田秀雄(電通の中興の祖)ですら信じなかった、テレビは儲かるビジネスということを誰も疑うものはいなくなっていた。
そんな中、登場するのが「波取り記者」だ。儲かる新メディア・テレビに確信をもった新聞社は新局をわが傘下とするため、監督官庁や与党幹部と膝詰め談判できるベテラン記者を郵政省に配置。記事を書くためではなく、新局の許認可情報を他社に先駆けて得ることに専念させた。この新聞社の新局=放送電波争奪合戦に血道をあげる記者と新聞社を「波取り記者」と揶揄したのだ。

写真:毎日新聞社/アフロ

ネットワークという系列

日本のテレビ局の放送エリアは東名阪の広域圏と各県域単位で許認可されている。故に日本全国に放送を届けるためには各放送局を結ばなければならない。それをネットワークという。基本的にテレビの番組はキー局(ほとんどが東京局、一部大阪局)が放送する番組を地方局が受信(基本は回線経由)して地元で放送するという仕組み。ネットワークは資本・出身関係等で構築されるケースがほとんどで、とくにテレビ事業初期に開局した東阪のテレビ局はその関係が色濃い。
日テレは系列の読売テレビ(YTV/昭和33/1958年)開局までは大阪テレビ(OTV)にネットしていた。日テレからの番組が抜けたOTVは、KRT(現TBS)からの番組と自社制作番組でプログラム編成していた。さらにその後、朝日新聞系のABCと毎日新聞系のMBS(前NJB)に分離する。これは東京でのフジテレビとNET(現テレ朝)の開局と連携している。新聞社色の薄いフジ(財界系でニッポン放送/文化放送のラジオ局が株主)は、前年(数ヵ月前)開局した関西テレビ(KTV/大阪で強い産経と私鉄系)を系列局化する。つまりフジ、NET開局までの4カ月ほどの間、民放テレビ局は東京2局、大阪3局時代があったことになる。
そして、それまでのネットワーク・システムを引き継ぐ形でKRT(東京)―ABC(大阪)という系列と、新局同士の組み合わせである東京・NET―大阪・MBSという系列が生まれたのである。

「腸ねん転」の解消とは?

当時のNETの株主構成は日経新聞が大株主で(49.9万株)、東映(20万株)、旺文社(11.4万株)、そして朝日新聞が14万株保有していた。その東映・旺文社間で社長人事を巡って内紛が勃発。調停人として登場したのが、当時、自民党幹事長の田中角栄だった。昭和40(1965)年のことである。
そこで角栄が示した調停案は、新聞系列によるテレビネットワークの再系列化という大手術だった。それは新聞社としてのテレビ事業に乗り遅れていた朝日新聞に恩と貸しをつくって、メディアを自在に操るという角栄独自の政治的メディア戦略の具現化だった。
角栄の剛腕は日経に前年(昭和39/1964)開局していた東京12チャンネル(現テレビ東京)を渡す代わりにNETから手を引かせ、東映の持ち株を譲り渡す形で朝日新聞を筆頭株主にし、NETを朝日の傘下とさせたのである(NETは昭和52/1977年、テレビ朝日と改称、朝日色を強める)。
そこには東阪ネットワークの系列一本化構想が秘められていた。筆頭株主ではないがTBSと毎日新聞は系列視されていた。しかしテレビのネットワークは朝日放送(ABC)と結んでいる。ABCは社名が示すようにバリバリの朝日新聞系列。かたやNETの大阪局は毎日放送(MBS)でこれも隠しようのない毎日系列。東京と大阪の系列局が捻じれている。 
すなわちいわば「腸ねん転」しているので、正常な状態(単一の新聞系列)に戻すという論理で、10年後の昭和50(1975)年4月1日の午前0時をもって、TBSのテレビ番組を関西地区で放送していたABCからMBSに、またNETのそれはMBSからABCに瞬間的にチェンジしたのである。
私はこれを広告マンとして現場で体験することになるのである。(つづく)

千葉 廣太郎

外資系広告代理店に長年勤務し、その後フリーのプランナー&大学で広告論等を講ず。現在は隠居仕事として某大で近代文学を履修・研究中。