第7回:60年前の中学受験

私が中学に進学したのは昭和36(1961)年で大阪の私立校だった。中学受験は今日でも最も盛んな東京都で18%程度だが、当時としてはかなり稀有なケースだったと思う。
60年前、首都圏では日進(日本進学教室)が先行し、その後、四谷大塚(昭和31/1954年設立)が中学受験ニーズに応えていたようだが、関西エリアでそれに相当するのが「芦屋通信」で、月1回のテスト形式の通信添削形式(確かもう1業者あったような気もするが…)だった。受験生はこの教材と市販の参考書(今も存在する受験研究社の「自由自在」シリーズか、教学研究社の「力の5000題」シリーズ)に5年の秋頃から取り組み、6年になったら同社が実施する模擬試験にもときどき参加し、自分のレベルを確認(単なる順位。偏差値などという評価軸はまだ開発されていなかった)し、受験校選定の指針としていた。
当時の阪神エリアの男子は灘中、甲陽学院、六甲学院のトップ3を目指した。私は甲陽学院が第一志望校だったが、理系頭の秀才を好んで採ろうとするトップ校の問題(今日でもそうだが算数が2日にわたって出題される)にまったく歯が立たず、滑り止めで受かっていた大阪の共学校に入ることになった。
私の中学受験時(昭和36/1961年)の大学進学率(男子)は15.4%で、大学受験時(昭和42/1967年)のそれが20.5%(現在は60%弱)。中学受験の指針とされる東大合格者数を灘でみると、私の中学受験時に34人だったのが、6年後の大学受験時は約100人増の130人と急増している。教育熱心な親たちがわが子を中学受験させる成功事例を私たち世代がつくった、と言い張れるデータのようにも読めなくはない。

「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」

写真:サントリーホールディングス株式会社

スベリ止めの学校だったが中学生活は楽しかった。そんな中1の秋、テレビCMで盛んに放映されたのが寿屋(現サントリー)の販促キャンペーン「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」だった。同社のトリスウイスキーに付いた抽選券で100名にハワイ旅行の資金(約40万円)が当たるというもの。1ドル360円の固定為替相場、海外渡航自由化は3年先の時期で海外は憧れの対象でしかなかった時代、1等の賞金総額だけで4000万円という驚愕企画だった。この年は景品総額に上限規制がかけられる(景表法の施行)直前の時期だったので、50円分のガムで1000万円が当たる「ロッテ天然チクルセール」など超大型企画が流行していた。
ところで、このCMのキャラクターと知られる「アンクルトリス」(同キャラクターは今日でもトリスハイボールなどの広告で活用されている)は同社の宣伝部に籍を置くイラストレーターの柳原良平・作で、コピーは翌年「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を獲る山口瞳だ。さらに同部には芥川賞作家(昭和33/1958年「裸の王様」で受賞)の開高健も所属しており、開高もやはりトリスの「「人間」らしくやりたいナ」という名作のコピーライターとして知られていた。

名門宣伝部のスゴイ面々

写真:サントリーホールディングス株式会社  

寿屋の宣伝部は上述のようにスゴイ連中が在籍していた。この環境を準備したのが寿屋の創業者・鳥井信治郎である。6年前(平成26/2014年)のNHKの朝ドラ「マッサン」でも信治郎のモデル役を堤真一が演じて、寿屋(ドラマでは鴨居商店)のスゴイ広告制作エピソードが描かれていた。それが日本初の女性ヌードポスターで、ドイツで開催された世界ポスター展で第1位を獲得。今から100年前の超先進的なポスター(着物を落とし肩を出した日本髪女性をモノクロで写し、手にしたワイングラスのみ赤く印刷した赤玉ポートワインの広告。カラー写真のない当時としては画期的な作品)を制作したのが日本の広告クリエイターの嚆矢・片岡敏郎で、森永製菓の宣伝部に居た片岡を大卒初任給のおよそ10倍の給料で寿屋に迎えたのも鳥井信治郎だった。
もともと広告の制作(クリエイティブ)物は広告主側が担うものだった。広告代理店は媒体(メディア)を確保するのが主業務でまさにスペース(紙/誌面)ブローカーでしかなく、代理店内部に制作セクションを設置するのはかなり後になってから。故に優れた広告クリエイターは広告主の宣伝部に多く居るのが常識だった。
前述のごとくサントリーはその代表的企業だが、もう1社忘れてはならないのが資生堂だ。創業者・福原有信の三男、信三により大正6(1917)年発足の意匠部(現センデン部)がそれで、多くのインハウスクリエイターを擁し、活発に広告制作活動を展開している。大正末から昭和初期に資生堂の「花椿」マークで象徴される「資生堂調」といわれるアール・デコスタイルのデザインの独特のトーンを創り出したのが、デザイナーの山名文夫。故に「資生堂調」は「山名調」とも別称されている。
両社と比べても遜色のない宣伝部が松下電器(現パナソニック)だ。それも広告そのものではなく、自社の広告を載せる「のり物」=テレビ番組をつくり出した異色の企業宣伝部員を同社が輩出したのである。(つづく)

千葉 廣太郎

外資系広告代理店に長年勤務し、その後フリーのプランナー&大学で広告論等を講ず。現在は隠居仕事として某大で近代文学を履修・研究中。