第8回:「水戸黄門」をつくった男

青春ドラマのはしり「青年の樹」

中学生になった私が毎週欠かさず観ていたテレビドラマがある。
それはTBS系列で月曜日の夜8時半からの30分番組「青年の樹」。
昭和36(1961)年6月~翌年末まで1年半続いた。原作は石原慎太郎が週刊明星に連載した(昭和34/1959~35/1960年)同名の青春長編小説で、テレビドラマ化の前年、裕次郎主演で映画化されている。しかし、映画の方は主役の坂木武馬と、その親友で横浜のヤクザの息子の和久宏の2人の東大生を合体させ、和久武馬として描く早撮りのプログラムピクチャー(量産映画)の1作でしかなかった。
一方、ドラマは初心で純な青年・武馬をオーディションで選んだ新人・勝呂誉が、大人びた和久役を元プロ野球(東映フライヤーズ)選手の寺島達夫が演じ、原作を忠実に再現した。武馬の恋人・山形明子役の小林哲子も俳優座の新人で、小林は理知的な東大生を見事に演じてみせた。武馬の父で元外国航路の船長が森繁久彌、武馬が下宿する元芸者で小唄の師匠を沢村貞子、明子の姉で武馬の腹違いの姉に馬渕晴子、甲子園優勝投手の東大生の恋人に大空真弓(勝呂は後に大空と結婚)、ラグビー部の顧問で教授(助教授だったかも)に南原宏司、徳川夢声、水戸光子、河津清三郎…と脇もしっかり固められていた。そういえば、武馬が入部し活躍する東大ラグビー部員として、石井伊吉の本名で後の毒蝮三太夫が、さらに毒蝮と大学同窓の砂塚秀夫や竜雷太も部員役をやっていた。
ドラマは大ヒットし、当初2クール(26回)の予定を延長(約1年延長し計80回放送)。その際、小林哲子が病気降板し代わりに香山美子が明子役に抜擢された。香山は後に松竹の主演女優に成長するが、この時、弱冠17歳で東大の女子大生を演じるには未熟すぎ、ガッカリした記憶がある。
このドラマにハマった私は角川書店から2巻本で単行本化されていた原作小説をすぐ取り寄せ貪り読み、これを機に石原作品(「完全な遊戯」や「亀裂」等)に親しむようになった。高校生になって生まれて初めての個人全集(著作集)を買うことになるのだが、それが河出書房新社から刊行された「石原慎太郎文庫・全8巻」(昭和39/1964~40/1965年)だった。また、このドラマの軍歌チックな主題歌(石原慎太郎・詞、山本直純・曲、三浦浩一・歌)の詞や曲調は、その後急旋回していく石原を予感させるように思えてしかたない。あくまで個人的な感想だが…。
「青年の樹」の後番組は、同様の設定(勝呂が引き続き主役)で2匹目のドジョウを狙った「大学生諸君」(原作は「アメリカンスクール」で昭和29/1954年に芥川賞の小島信夫)だったが、まったく私には響かず、今でいう「~ロス」という現象を14歳の私は感じることになる。
この青春ドラマのはしりでありかつ、名作「青年の樹」をプロデューサーとして世に送り出したのが、逸見稔という松下電器の宣伝部員だった。

「水戸黄門」をつくった男

逸見稔は大学卒業と同時に東京松下の宣伝部に配属され、「♪明るいナショナル~」という有名な松下のCMソングづくりを皮切りに、スポンサー側のプロデューサーとして番組づくりに積極的に参加。TBSの月曜枠で宮城まり子の「てんてん娘」(昭和31/1956年)を手始めに、先の「青年の樹」、森繁久彌の「七人の孫」(昭和39/1964~41/1966年)とヒットドラマを連発。TBSには逸見のデスクがあるだけではなく、よく泊まり込んでドラマづくりに励んでいたとのエピソードも残している。
TBS以外では、フジで「ズバリ!当てましょう」(泉大介・司会、昭和36/1961~57/1982年)というクイズ番組、NET(現テレ朝)ではヒットドラマ「だいこんの花」(森繁&竹脇無我/昭和45/1970~52/1977年)…と数え上げれば切りがないが、TBS月曜枠が1時間になって(昭和39/1964年)、数年、現代ものドラマ(「七人の孫」や布施明の「S・Hは恋のイニシャル」等)が続いた後始まったのが、逸見の代表作「水戸黄門」(昭和44/1969年~)である。
全43部(シーズン)、計1228回(スペシャル含む)、主役の黄門様役は5代、放送期間46年を記録するギネス的テレビ番組を生み出したのである。もちろん、「水戸黄門」のオフシーズンに放送される「大岡越前」(昭和45/1970~平成11/1999年)や「江戸を斬る」(昭和48/1973~平成6/1994年)も逸見が手掛けた作品であるのは言うまでもない。
平成7(1995)年12月、逸見稔は心筋梗塞で62年の生涯を閉じた。当時、外資系広告代理店に勤めていた私の嘗ての上司が彼の実弟だったため、告別式に参列したが、葬儀会場には葬儀委員長をつとめた森繁久彌をはじめ、殆どすべてのテレビ・芸能関係の人々から送られた供花を示すための小ぶりの名札が何百となく並んでいた。テレビ草創期を支え、駆け抜けた陰の人物の存在を、私はこの時改めて知る思いがしたものだった。(つづく)

千葉 廣太郎

外資系広告代理店に長年勤務し、その後フリーのプランナー&大学で広告論等を講ず。現在は隠居仕事として某大で近代文学を履修・研究中。