第9回:少年を大人にしてくれるマガジン

思い出の少年雑誌たち

私の小学生時代の雑誌遍歴は月刊誌から始まった。「ぼくら」(講談社)、「少年」(光文社)、そして「赤胴鈴之助」が掲載されていた「少年画報」(少年画報社)。同誌には「まぼろし探偵」や「天馬天平」など後に人気を博す漫画も連載された。これらはすべて漫画だったが、少年誌には絵物語も必ずあり江戸川乱歩の「少年探偵団」はその代表だった。また雑誌の巻頭には見開きカラーの緻密な画(メカニックイラスト)が掲げられており、題材はたいてい太平洋戦記ものか空想科学もの。描いていたのは小松崎茂だった。
私は上記の月刊少年雑誌を毎月買っていたわけではなく、友人宅で読んでいたという記憶だが、唯一、これだけは買っていた雑誌が芳文社の「野球少年」(昭和22/1947~31/1956年)だ。戦前風の読みものが中心で当然、野球をテーマにしたものだった。私は大の野球少年だったので、同誌を好んだのだろう。ただ、その愛読期間は小学校の2年生くらいまでで、漫画人気に押されて「野球少年」は消えていった。

漫画原作のテレビドラマ

上の表で明らかなように、私が愛読したほとんどの漫画はテレビドラマ化されていた。「赤胴鈴之助」は東阪で同時期、別のドラマとして放映されたようだが、私の記憶にはラジオドラマ(昭和32/1957~34/1959年)の方が残っている。吉永小百合が鈴之助が弟子入りする千葉周作の娘役でラジオ・テレビとも同じ役をやっていたが、なぜかテレビの「赤胴鈴之助」の印象は乏しく、同時期大映で映画化された(主役は梅若正二/全7話)方を併映作(三橋美智也の歌謡映画「哀愁列車」昭和32/1957年)に至るまではっきり覚えている。
吉永小百合は「まぼろし探偵」にもヒロイン役で出ていた。このドラマの制作は折込広告社(現オリコム)という広告代理店で、民放テレビ初期のドラマを広告代理店が担うことは結構あった。TBSの日曜夜7時からの30分枠で、武田薬品がスポンサーの「月光仮面」(原作・川内康範/昭和33/1958~34/1959年)がその代表だ。昭和の大作詞家・阿久悠も在社したという宣弘社の制作で、主人公の大瀬康一演じる祝十郎(実は月光仮面)の探偵事務所は宣弘社の社長宅の応接間を使って撮影されたといわれている。大瀬は数年後、同じ放送枠の「隠密剣士」(昭和37/1962~40/1965年)で忍者ブームに火をつけ再度のヒットを飛ばす。ただし、「月光仮面」も「隠密剣士」もともに漫画原作のドラマではなかった。
「鉄腕アトム」は手塚プロによるテレビアニメ(第1シリーズ、昭和38/1963~41/1966年)が知られているが、初のテレビ化は実写版で、プラスチック製の着ぐるみ(顔面だけが露出していた)のアトムが登場し、子供心にこれじゃあないと思ったものだ。
「矢車剣之介」を演じた手塚しげおはドラマ後に、日本初の男性アイドルグループとして活躍した「スリーファンキーズ」の高橋元太郎(「水戸黄門」のうっかり八兵衛が当たり役)の後を受けて第二期メンバーとなった。ジャニー喜多川は、このスリーファンキーズを先行モデルに私と同世代の少年たちを集め、「ジャニーズ」を結成したといわれている。
また「天馬天平」の富士八郎は歌手の倉木麻衣の父親で、芸名は放送局のフジテレビ(8チャンネル)に由来している。

少年を大人にしてくれるマガジン

講談社
1959年3月26日号
週刊少年マガジン創刊号

月刊誌しかなかった少年誌の世界に週刊誌が登場するのは、昭和34(1959)年3月17日。小学館の「週刊少年サンデー」と講談社の「週刊少年マガジン」がダブル創刊された。サンデーは長嶋茂雄、マガジンは(初代)朝潮と少年が表紙を飾り、マガジンの方の少年は有名子役の設楽幸嗣だったように思う。私がサンデーの方を買っていたのは30円でマガジンより10円安かったからかも知れない。
少年誌を卒業し、大人向けの雑誌を手にするようになったのは中2(昭和37/1962年)の4月。クラスの誰かが学校に持ってきていた「CARグラフィック」(「カーグラ」二玄社)だった。まず表紙が衝撃的で、真っ白なベンツの300SLが正面上方から撮られ、本文ではメルセデスの特集が組まれるという形式だった。私は第2号から買うようになったと思う。2号はジャガーEタイプで真っ赤なキャブリオレだったように思っていたが、復刻版によると白だったので記憶の方が間違っていた。約1年後に日本初の高速道路(名神高速道路、栗東―尼崎間)開通を控え、わが国にも本格的なモータリゼーション時代が幕開けようとしていた。
夢想的な戦闘機や戦艦から、私はより現実的なクルマにカッコよさの対象を移し始めていた。少年を脱しようとしていた私の憧れの対象はいうまでもなくスポーツカーだった。通学途上の省線(現JR)甲子園口の駅前には設立されたばかり(昭和37/1962年)の関西スポーツカークラブ(KSCC)があり、当時、珍しい外国製のスポーツカー(MGやトライアンフTR-4など)が駐車しており、胸をときめかせて長い間眺めていたものだ。そのスポーツカー熱を長期ロードテストなどを駆使し、知識・情報・理論的にバックアップしてくれたのが、日本初の本格的なモータージャーナリスト・小林彰太郎による「カーグラ」だったのである。
そしてもう1冊、私を少年から大人に近づけてくれたマガジンが「MEN’S CLUB」(「メンクラ」)だった。(つづく)

千葉 廣太郎

外資系広告代理店に長年勤務し、その後フリーのプランナー&大学で広告論等を講ず。現在は隠居仕事として某大で近代文学を履修・研究中。