だまってクレージーキャッツについていった昭和39年という年

西暦1964年、和暦では昭和39年という年は、10月に控えたアジア圏初のオリンピック大会、つまり「東京オリンピック」開催に向けて、日本国内はインフラ整備が急速に進み首都高速道路1号線(江戸橋ー羽田間)と4号線(江戸橋ー初台間)の開通や日本国有鉄道(現:JR)の最新型高速鉄道線である東海道新幹線の整備も10月1日の開通に向けて進み、日本国内に約20年前の終戦から続いていた、戦後復興をようやく庶民も実感できた年でもある。本格的に日本の経済状態が高度成長期に突入し、1956年の第3次鳩山内閣の折に発表された経済白書に記載された有名な言葉「もはや戦後ではない」が現実味を持ち始めたのが、昭和39年という年だと言えよう。

戦後期の苦しい時代が終息したことによって、日本に住む庶民の生活にも大きな変化が訪れており、特にそれまでは街頭や銭湯の華であったテレビが、1958年以降に家庭向けテレビが普及し始めており、東京オリンピックを間近に控えた1964年には、オリンピック放送に合わせて購入を決めた家庭も多かったと言う。カラーテレビも1960年には地上波でのカラー放送が始まっていたが、一般家庭への本格的な普及は1970年代以降になるので、それはまた別の話。

SHOWAプレイバック 写真提供:映画演劇文化協会

一般家庭にテレビが普及し始めると、庶民の娯楽の中心がテレビになるのは当然の結果で、大相撲中継に野球中継、プロレス中継などの街頭テレビ時代からの人気番組はもちろん、1961年から放送開始された、渡辺プロダクション(現:ワタナベエンターテインメント)と日本テレビの共同制作による音楽バラエティ『シャボン玉ホリデー』の存在は欠かせない。
渡辺プロダクションの看板タレントであるハナ肇とクレージーキャッツに売り出し中の双子デュオ ザ・ピーナッツという組み合わせで、コントと歌、トークなどを毎回登場するゲストと一緒に繰り広げる番組は大ヒット。この手法は後の1970年代に渡辺プロダクションとTBSの共同制作番組『8時だョ!全員集合』へと受け継がれるが、それもまた別の話。

『シャボン玉ホリデー』の「シャボン玉」は、一社提供を行った牛乳石鹸株式会社への配慮で、番組のオープニングで牛乳石鹸のシンボルで牛の鳴き声が使われ、オープニングソングに大量のシャボン玉が飛び交う華やかなものとなった。
日曜18:30~19:00の放送であり、家庭では夕食の団欒時間。いわゆる「ながら食べ」を日本人に定着させたのも『シャボン玉ホリデー』の特徴のひとつと言えよう。植木等たちが繰り広げる「お呼びでない? こりゃまた失礼いたしました」などのギャグが月曜日の学校や、飲み屋の席で乱発されたことも特記しておくべきだろう。
当時の渡辺プロダクション社長であった故・渡辺晋社長は、テレビを大衆娯楽の中心と捉え、さらに週末の娯楽の中心を映画と捉えたのだろう、大人気のハナ肇とクレージーキャッツとザ・ピーナッツ、坂本九ら渡辺プロダクション所属の人気タレントたちを中心に据えた映画の製作も東宝とタッグを組んで製作開始するのは、テレビで『シャボン玉ホリデー』が放送開始するのと同時の1961年からである。
まずザ・ピーナッツを当時、人気を博していた東宝の怪獣映画『モスラ』に小美人役で送り込み、1961年7月の夏休み公開で、ザ・ピーナッツが歌う劇中歌も含めて大ヒット映画となる。同時上映は坂本九主演、「週刊読売」の人気連載漫画の実写映画化『アワモリ君売出す』で、この作品は翌年以降、クレージー映画でもメガホンを取ることになる故・古澤憲吾監督の作品で、物語中で突然歌い出すミュージカルタッチコメディは、翌年の1962年公開の『ニッポン無責任時代』から始まるクレージー映画や加山雄三主演の若大将シリーズまで継承されることになる。

話を1964年に戻そう、この年は春にザ・ピーナッツが出演する怪獣映画『モスラ対ゴジラ』と秋に『三大怪獣 地球最大の決戦』が公開される傍ら、クレージー映画では日本一シリーズからは6月に『日本一のホラ吹き男』、7月にはクレージー作戦シリーズから『無責任遊侠伝』、そして初の時代劇である『ホラ吹き太閤記』がハナ肇とクレージーキャッツ総出演の映画として10月に公開されている。一年の間に3作品が制作されるほど、東宝としてもクレージー映画が当時のドル箱シリーズであったことは間違いないだろう。

さて、本項の主旨である「だまって俺について来い」は、東京オリンピックの開催と時を同じくする1964年10月公開のクレージー映画『ホラ吹き太閤記』の主題歌として採用された楽曲で、作詞は青島幸男、作曲は萩原哲晶のクレージー楽曲を提供している名コンビ。
植木等演じる木下藤吉郎が口八丁手八丁で戦国時代を登り詰める姿を描いた『ホラ吹き太閤記』は、主演の植木等をはじめ、ハナ肇が織田信長、谷啓が徳川家康、青島幸男が大久保彦左衛門役を演じるという豪華な布陣で、ヘリによる空撮も取り入れるという力の入れようだ。残念ながら犬塚弘は出演していないが、これは監督との確執があり降板したと伝えられている。安田伸、石橋エータロー、桜井センリらも出演していないが、それらの事情は公表されていない。
植木等演じる日吉丸(後の木下藤吉郎、豊臣秀吉)はひょんなことから野武士・蜂須賀小六(正勝)の家来となり、口八丁手八丁で手柄を得て、織田家への士官を果たす大出世物語である。木下藤吉郎をちゃっかり者のサラリーマンとして捉えた作風はクレージー映画の基本であるが、それまでの現代劇から大きく離れた時代劇であるが、これは翌年1月から放送予定だったNHK大河ドラマ第三弾『太閤記』の話題に便乗したものであったことが容易に想像できる。大河ドラマで注目を集める太閤記をちゃっかり前だしで利用するあたり、さすがはクレージー映画と感心してしまう。
知恵と才覚、チャンスを掴んで立身出世する「太閤記」は日本人好みのお題であり、それをクレージー映画へと落とし込むというアイデアは、ベストなタイミングで実現したのである。

劇中でもミュージカル仕立てで、突然、植木等演じる木下藤吉郎が高らかに歌いだす「だまって俺について来い」は、高度成長期に沸き立つ日本経済を象徴するような楽曲で、能天気に、しかししたたかに出世街道を突き進む木下藤吉郎に自分たちの姿を重ねて、観劇後に劇場を離れる観客たちがついつい口ずさんでしまっただろうことは想像に難くない。10月公開というギリギリの発表で、この年の第15回紅白歌合戦にも選出されており、シングルカットされたレコードも飛ぶように売れたという。『ホラ吹き太閤記』には「だまって俺について来い」以外にも、「天下取り節」や「人生五十年」などの名曲も挿入歌として使われているが、「だまって俺について来い」の圧倒的なインパクトの前では霞んでしまったためか、シングルカットはされていないし僕らの印象も薄い。
「だまって俺について来い」は後年、歌詞などに手を加え、数多くのテレビ番組やアニメ作品などにも使われ、発表当時、この曲に触れた人々の心に大きな印象を残したことは想像に難くない。特にアニメ監督の故・高畑勲監督は自身が脚本も執筆した映画作品『おもいでぽろぽろ(1991年)』や『ホーホケキョとなりの山田くん』で挿入歌として使用しており、この曲をかなり気に入っていたものと思われる。
ひたすら明るく能天気に歌われる「だまって俺について来い」は、敗戦後の苦しく辛い日々をくぐり抜け、胸を張って明るく時代を切り開こうという意気込みを日本人の心に植えつけた楽曲だったのかも知れない。この熱気は70年代まで続くことになるが、それはまた別の機会に。

TACBON(山本拓哉)

売文屋、デザイナー、編集業。1964年、大阪に生まれる。70年の夏、大阪・吹田市で開催された日本万国博覧会に心を揺さぶられ、未来の世界を夢想する毎日を過ごす。着々とオタク街道を進む中、80年代には関西を中心に盛り上がっていたガレージキットの世界にのめり込む。無類のエンタメ好きが高じて、現在はデザインや執筆業を営む一方、各種の企画立案など、多岐の分野で業界内を走り廻っている。