第1回:スクリーンは唄う

昭和33(1958)年・夏

夏休みの最終日の誕生日で10歳になる小学4年生の私は、例年のごとく京都の伯母宅に一人で来ていた。その家は下鴨の文教地区にあり、ノーベル賞(昭和24/1949年に受賞)の湯川秀樹博士宅がご近所だというのが伯母の自慢だった。
伯母の連れ合いはもともと造船技師だったが、その頃は京都の私大で数学を教えていた。
大学教師の安月給を補うため、年上女房の伯母はさまざまな会社の株を操って利殖に励んでいた。一家の収入の大半を伯母が稼いでいた分かりやすい証拠は、伯父は20本で40円の「いこい」を喫っていたが、伯母は倍の値段(10本40円)の「ピース」だったことだ。当時たばこは喫煙者(ほとんどの大人の男性は喫っていた)の社会的クラスの記号的シグナルでもあった。ピースは一流サラリーマンの証(父は課長になってからといっていた)で、いこいやさらに安い新生は労働者階級のたばこだった。
私が一人でも伯母宅に行くのを好んだのにはわけがある。伯母が株主になっている映画会社から届く株主優待招待券が、この家には溢れていたからだ。年齢の割にはませていた私は、この招待券こそが京都行の目的だった。

風速40米 ©日活

「風速40メートル」

昭和33(1958)年は、映画の観客動員数が11億2745万人という最多記録を樹立したメディア史のなかで記憶されるべきエポックメーキングな年だ。映画は日本人の娯楽の王様として君臨し、映画会社はその黄金期を謳歌していた。
予定通り私は新京極の映画街に繰り出した。観た映画は日活の2本立て。石原裕次郎の「風速40メートル」(監督:蔵原惟繕)がメイン、併映作は「星は何でも知っている」で主演は岡田真澄だった。
石原裕次郎は「太陽の季節」で昭和31(1956)年の芥川賞を受賞し、「太陽族」という一大風俗を生み出した学生作家・石原慎太郎の弟。同小説が同じ年に映画化(主演は結婚前の長門裕之と南田洋子)された際に俳優デビューし、数ヵ月後には兄原作の「狂った果実」(監督:中平康)で主演をつとめる。これまでの日本の映画界には居なかった新鮮な個性と姿態をスクリーンに叩きつけ、瞬く間にスターの座を駆け上っていた。ちなみに中平の「狂った果実」は、フランスのヌーベルバーグ映画(「突然炎のごとく」<1961年>など)で著名なフランソワ・トリュフォー監督に影響を与えた佳作として知られている。
「風速40メートル」は裕次郎デビューから2年強、24作目の映画だった。映画自体は当時週に1作のペースで早撮りされるプログラム・ピクチャー(量産映画)の1本だった。

スクリーンは唄う

映画は凡庸だが、裕次郎が映画のなかで唄う主題歌がどれもヒットしており(「俺は待ってるぜ」、「嵐を呼ぶ男」…など)、この映画の「♪風が吹~く、吹く~」という主題歌もヒットした。裕次郎は唄う映画スターとしてのハシリともいっていい存在で、公開される映画のほとんどの主題歌を唄っていた。
日活はスターの歌手化を観客動員策として意識的に戦略化。(愛称タフガイ)裕次郎に続き小林旭(マイトガイ)もこの路線で売り出す。女優では吉永小百合がそうで、歌手デビューは「赤い蕾と白い花」(昭和37/1962年)の主題歌「寒い朝」(石坂洋次郎の原作がこのタイトル)。歌唱力に不安があるので、作曲の吉田正が門下のマヒナスターズを共演させている。これがうまくいったので、この年、やはり吉田門下生のニュースター橋幸夫(「潮来笠」で昭和35/1960年に登場)とのデュエットを「いつでも夢を」で組ませ、レコード大賞を獲得している。
小林旭の歌唱力は定評があった。それが認識されたのは後にジャニーズ事務所のメリー喜多川の夫になる藤島泰輔の現上皇の皇太子時代をモデルにした小説の映画化「孤独の人」(昭和32/1957年)での同級生役といわれている。とまれ、旭は裕次郎ともども歌手としても昭和を代表する存在として歌謡史に足跡を残す。
このスター歌手化戦略は、のちに東宝が加山雄三の「若大将シリーズ」に採用。「君といつまでも」(昭和40/1965年、映画は「エレキの若大将」)という大ヒット作を放っている。
ところでヒットした歌謡曲(流行歌)の映画化は当時の邦画の得意技で、併映の「星は何でも知っている」もそのジャンルの映画。まだ歌手だった平尾昌晃のヒットソングで、もちろん平尾も共演している。平尾はこの年の初めに日劇で催された「ウエスタンカーニバル」でミッキー・カーチス、山下敬二郎とともに出演し、ロカビリー3人男と称され熱狂的なロカビリーブームを生み出した。当時、放課後の掃除当番時の生徒たちは皆んな、箒をギターに見立てて「ロカビリーごっこ」をしたものだった。
歌謡映画はその後も邦画界で重用され、60年代はその全盛期で、前半の御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)、後半のグループサウンズ(ザ・タイガース、ザ・スパイダーズなど)のヒットソングとタイアップした日本映画が相当数製作された。
映画を見て伯母の家に帰宅した私を待っていたのは、自宅から「今、テレビが家に来た」という電話だった。(つづく)

千葉 廣太郎

外資系広告代理店に長年勤務し、その後フリーのプランナー&大学で広告論等を講ず。現在は隠居仕事として某大で近代文学を履修・研究中。