山口百恵『いい日旅立ち』

作詞・作曲:谷村新司

昔むかし、ひとりの少女が歌手を目指して、『スター誕生』というオーディション番組に出場しました。
審査員を務めていた作詞家の阿久悠は、少女にこんなことを言いました。
「あなたはさ、青春ドラマの妹役とかならいいんだけどさ、歌手は諦めた方がいいんじゃない?」
それでも少女は準優勝を果たし、歌手になりました。
少女の名前は山口百恵。まだ13歳でした。

デビュー曲『としごろ』の売れ行きがパッとしないので、スタッフは路線変更を思いつきました。
「純朴でまじめな女の子がきわどい歌を歌うのってどうよ? 背徳的でぐっとこない?」
後に『青い性路線』とか『性典ソング』とか呼ばれたこの路線は大当たり。
山口百恵は絶大な人気を獲得しました。
ちなみに、芸能レポーターから「『女の子の一番大切なもの』って何?」としつこく何度も聞かれた山口百恵は、そのたびに、「まごころです」と答えたそうです。

歌に映画にドラマにと大活躍した山口百恵は、写真家篠山紀信から『時代と寝た女』と呼ばれ、評論家平岡正明からは『山口百恵は菩薩である』と持ち上げられました。

『いい日旅立ち』は、昭和53年、山口百恵が19歳の時に歌った大ヒット曲です。
国鉄のキャンペーンソングとなり、この『いい日旅立ちキャンペーン』は大成功。なんと5年3か月も続きました。
『いい日旅立ち』のメロディは、国鉄がJRに代わった現在も、新幹線の車内チャイムで流れています。
それほどの名曲ですから、結婚式や卒業式などでもよく歌われていましたが、楽曲を提供した谷村新司はこう言っています。
「歌詞をよく見て下さい。この唄は決してそんな祝いの席に歌うような、いい意味の曲ではありません」

山口百恵は昭和55年に芸能界を引退しました。
三浦友和と結婚するためでしたが、所属事務所のホリプロと確執があったとも言われています。
ファイナルコンサートでは、『さよならの向こう側』を歌い終わり、マイクを置いて去っていきましたが、歌手として最後に立ったステージは、ホリプロの20周年記念式典でした。
山口百恵が歌ったのは、『いい日旅立ち』でした。

彼女はその後、離婚もせず、復帰もせず、国会議員にもならず、いまでも幸せに暮らしているはずです。

イベントプランナー/劇作家
如月 伴内

ある時はイベント制作会社のプランナー。
またある時は某劇団の座付き作家。
しかしてその実体は、ちょいとミーハーな昭和ファン。