第4回:泡と消えた時代 ~DCブランドブームの話

結局のところ、DCブランドとはなんだったのか?
もちろん、検索エンジンをひっぱたけば、それらしい説明は出てくる。
デザイナーズ&キャラクターズブランドの略称だということはわかるし、もっともらしいその特徴も書いてある。
しかし、どんな物差しを当ててみたところで、川久保玲や山本耀司とコムサやニコルを同じ土俵に並べることが無理筋なのは、ちょっとでも洋服に興味にあるSHOWAメンズ諸氏ならば説明は不要であろう。

日本のメンズファッション史でブームとして記録されるブランドをあげれば、まずはアイビールックの立役者石津謙介率いるVAN JACKET。続いては伝説のドラマ『傷だらけの天使』でショーケンこと萩原健一の衣装を担当して一躍注目を集めた菊池武夫のBIGIというあたりで異論はないはずだが、DCと呼ばれたブランドのどれ一つをとっても、それらの先達に匹敵するほどの影響力を単独で行使したものはない。
もうひとつ特徴的なのは、VANにはアメリカントラッド、BIGIにはコンチネンタルという明確な文化的背景があったが、DCブランドにはそれがない。ようするに80年代日本を席捲したと言われるDCブランドブームとは、そもそもファッションとは別の視点で論じなければいけない概念なのだ。
 
乱暴を承知で言うならば、DCブランドブームとは「丸井の赤いカードで洋服を買う文化」と定義づけるのが一番シックリするように感じている。丸井の店舗が存在したのは最盛期でも関東一円に過ぎなかったことは百も承知のうえで〈手持ち現金以上の値段の洋服をクレジットカードで購入する〉というライフスタイルこそがブームの本質だったという意味から、そう断言したいのだ。

都心とも郊外ともつかない中野という中途半端な立地で創業した丸井は、元々の取り扱い商品だった家具小売りの手段である割賦販売をあらゆるアイテムに適用することでその規模を拡大させていった。言うまでもなくそれは、分割払いをしてでも今すぐ欲しい商品があるという消費者側のニーズが存在していたからこそ可能になった発展だ。

ファッション界のそれまでのブームは、皆が着ているから自分も欲しい、というストレートな欲求に根差していた。だからこそ対象となったブランドは子供でもその名を知るほどの知名度を得ることができた。けれども80年代という時代の気分は、もはやそれほど単純なものではなくなっていた。どうすれば自分を他人と差別化することができるか。それこそが当時の若者にとって最重要の価値判断基準だったのだ。

他人より少しでも良いもので身を飾りたい。〈良い〉の基準は値段でもセンスでも希少性でも構わない。決めるのは自分であり、それこそが自分の価値だ。感情をベースにしたその価値はいつでも刹那的で、時を逃せばアッと言う間に色あせてしまう。欲しい物はいまこの瞬間に手に入れなければならない。明日になったら多分、欲しい物ではなくなってしまうから。

DCブランドとはなにか? というシンプルな問いかけに明確な回答が存在しないのは、その本質がプロダクトではなく、こんな気分に突き動かされたアクションにこそあったからだと理解すれば、とたんに腑に落ちてくるのではないだろうか。
 
身の丈の収入にあわない洋服を月賦で買っていたなどと聞くと、今の若い衆はいかにもバブル的な軽佻浮薄さだと軽蔑するかもしれないが、それは完全な誤りである。

政府統計を紐解いてみれば、オイルショック後の1976年に94,000円だった新規学卒者の初任給が、20年後の1996年にはほぼ2倍の193,200円に跳ね上がっていることがわかる。1996年の20年後にあたる2016年のそれは205,900円。伸長率はたったの10%にしか過ぎないのとはあまりにも対照的だ。

現在の40代より下の世代にまったく実感がわかない話ではあろうが、80年代までの日本では、真面目に働いている限り黙っていても毎年収入が上がっていくのが常識だった。
確実に明るい未来があればこそ、月賦で洋服を買うという行為がネガティブな先送りではなく、いまこの瞬間を楽しむための手段として広く大衆に受け入れられたのだ。

ファッションプロデューサー 昭和風俗研究者
西式 豊

昼は某大手アパレルに勤務。
夜は某ブランドの企画運営。
最近は終戦直後占領期の横浜に興味津々。