第1回:私が「カニ族」だったころ

1970年代後半に学生時代を過ごした私の夏休みの定番は、ひとりで出かける北海道への旅だった。

1ドルが300円台で海外旅行がまだ夢の時代、私より少し上の世代の学生や若者は、1960年代後半から1970年代にかけて、「キスリング・ザック」と呼ばれる、メインの収納部の両サイドに大きなポケットがある山登り用の横に長い大きなザックを担いで、北海道を中心に日本各地へ旅に出た。

ザックを担いで列車の通路を歩こうとすると、ザックの横幅が80cmもあったから前向きに歩くことができず、横歩きをするしかない。横歩きで、ザックを背負った姿がカニに似ているから「カニ族」と呼ばれた。そんなカニ族だから、やはり女性は少ない。

少し年代が下がった私たちは、キスリング・ザックは横幅があってバランスを取りづらかったし、大きなポケットしかなくて収納が難しかったから、アルミフレーム(背負子)のついた縦長のザックを使った。ザックの素材も綿帆布からナイロンなど化繊に変わり軽量化されて、色もカラフルになり横歩きはしなくなったけど、やはりカニ族と呼ばれた。

カニ族は、おしなべて「暇はあるが金はない」、だから簡単な生活ができる荷物を背負い、宿泊などの費用を切り詰めながら、列車を利用して日本中の旅をする。

持ち物と言えば、最低限の服や下着、シュラフ(寝袋)と時刻表、それにガイドブックは必需品。最低限とは言え、2週間以上の旅となるとそれなりの量、パッキングに工夫をしないと歩くのも大変だ。

ヒッピーの流行がまだ少し残っていて、着ている服はTシャツにジーパン、上着はGジャンかポケットがたくさんあるサファリジャケットが多かった。気取らないファッションと言えば体裁が良いけど、そのころは男もみんな長髪で、丈夫が取り柄のジーパンはベルボトム。今で言うブーツカットジーンズ。それからタオルの代わりにもなるバンダナなんかを首に巻く。

宿が見つからないと駅の待合室や軒先に新聞紙を敷いてシュラフで寝る。だから汚れが目立たない格好が一番。今から思えば“不潔”そのもの、なんか臭いそうだ。

時刻表とガイドブックは、みんな必ず持っていた。ネットもスマホも無い時代、旅の情報は、本や雑誌を調べるか人から聞くしかない。
本の情報は最新の情報では無いことも多かったけど、有名どころが網羅されているから貴重な情報源になる。穴場的な最新情報は、ユースホステルの相部屋の人や食事をする時に聞く地元の人の情報が確かだ。

翌日の行き先もわからない我々の旅にうってつけだった乗車券が周遊券だった。
当時の国鉄(日本国有鉄道、JRの前身)は、出発地から北海道まで往復ができ、北海道内は自由に乗降できる均一周遊乗車券(周遊券と呼んでました)を発売していた。
北海道への往復や北海道内では急行列車や国鉄バスも利用ができるという優れものだった。

新幹線の開通やJRの合理化で急行列車や夜行列車は、ほとんど無くなり今では信じられないけど、上野駅の地上ホームから青森行の夜行急行だけで1日に5本は走っていた。
自家用車が普及する前の北海道内は、鉄道の路線網が充実していて列車の本数も多く、ほとんど一周することができた。

そんな東京発の北海道周遊券(1972年10月段階)は16日間有効で7,440円。学割だと2割引き。大卒の初任給が52,700円だったけど、16日間も列車が乗り放題になると思えば、鉄道旅好きにとっては夢のような時代。

私はいつも「津軽海峡冬景色」さながらの夜行列車、「八甲田」とか「津軽」の名の急行列車に乗って北海道に行っていた。

寝台列車もあるけど料金が高くなるから却下、通常のボックス型シートは空いていれば手足が伸ばせて眠れるが、混んでいれば眠れない。眠れなくても、これからのことを考えればハッピーだ。19時すぎに上野駅を出発、青森駅に着くのは翌日の朝の6時過ぎ、津軽海峡を渡る青函連絡船が急行列車と接続してくれていて、約4時間で函館港に着く。

ようやく着いた函館は北海道の表玄関、「さて、これからどこに向かおうか」時刻表を片手に、「今日は天気が良いから、やっぱり夜景は見てからにするか」考える時間はたっぷりある。

若いからできた旅だった。そして若い時にしかできない旅だった。

そんな旅とバイトの学生時代を送っていた私が、何をまちがったか就職したのがアパレル業界。次回からは、一応ファッションの片すみに身を置いた私から見た昭和の流行を語っていきたい。

あかちん

学生時代は旅とバイトに明け暮れ、卒業後、当時の女子高生に絶大な支持を得ていた某アパレルショップチェーンに入社。販売員、店長、生産企画から物流まで30年近くもファッションに携わる。
某大手アパレルに買収されたのを機に、全く畑違いの会社の企画部門に転職する。