第2回:不滅のアンノン族

昭和45~50年、西暦だったら1970年代、新しい旅のムーブメントが起こる。ザックを背負って旅をするカニ族の発生からちょっと後のこと。
ファッション雑誌「an・an(アンアン)」と「non no(ノンノ)」を片手に、雑誌に特集された場所を一人か少人数で旅をする若い女性たちが出現する。アンノン族だ。
むさくるしい男たちが旅をする「カニ族」のキーワードはザックと周遊券だったが、おしゃれな若い女性たち「アンノン族」の旅にもキーワードがあった。ファッション雑誌と国鉄のキャンペーンだ。

ひとつめのキーワード、「ファッション雑誌」。
日本のファッション雑誌の歴史が始まったのは、1970年にマガジンハウスが創刊した「an・an」と1971年に集英社が創刊の「non no」からだ。それまでは、ファッション雑誌といっても付録が型紙のような洋裁の雑誌しかなかった。若い女性をターゲットに、カラー写真をふんだんに使ってファッション、グルメ、旅、カルチャーのライフスタイルを提案した「an・an」と「non no」は画期的なものだった。情報を収集する方法はテレビか新聞くらいしかない時代、若い女性が飛びつくのも無理はない。

ふたつめのキーワード、「国鉄のキャンペーン」。
女性を旅に駆り立てる。それをグッグッと後押ししたのが国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」。このころから国鉄は、ほんとうに「良い仕事」をしていく。「ディスカバー・ジャパン」から始まり、「一枚のキップから」「いい日旅立ち」「エキゾチック・ジャパン」。この時代を生きた我々には忘れられないフレーズだ。
1970年10月、国鉄は大阪万博が終わってしまった後の旅客の落ち込みを防ごうと「日本を発見し、自分自身を再発見する」をキャッチフレーズにした個人旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を開始して、テレビやポスターなどで大々的に宣伝を始めた。

かたや若い女性に人気がある「an・an」と「non no」は、京都、奈良、鎌倉、各地の小京都や倉敷・萩などのシック(死語?)な町並み、中山道の静かな宿場町(妻籠宿・馬籠宿など)をファッションモデルが訪れる感じで紹介した。
それを読んだ若い女性たちは、ヒロインになったように「an・an」と「non no」を片手に、モデルが着ていたファッションに身をつつんで、観光地へ繰り出していった。

70年代、カニ族だった私が日本中を旅していたとなりで、ファッショナブルな女性達が、ちょっと違った旅をしていたのだった。とても残念なことに60年代に流行したミニスカートはもう廃れていた。ひざが隠れるマキシ丈のスカートに刺繍入りのブラウスやワンピースをみんなが着ていて、それが民族衣装がモチーフの「フォークロア」というファッションなのだということをユースホステルで知り合った女性に教えてもらったのもその頃だった。

女性を旅に駆り立てたことに、忘れてならない理由がもう一つあった。
ちょうどそのころ働く女性が増えていたことだ。そう女性たちは経済力を手に入れた。ライフスタイルはアクティブに、行動範囲も拡がっていった。やがてそれは社会にも影響を及ぼしていく。アンノン族が大勢殺到した清里高原は一大ブームになった。ペンションやタレントショップ、メルヘン調のカフェなどが乱立した。そこに目をつけたのが地方自治体、アンノン族を獲得することが地域の活性化になると考え、若い女性観光客を呼び込むための取り組みを始めることになった。大分の由布院などは、それまで温泉地といえば一般的だった、ターゲットを男性社員中心の社員旅行やお色気ありの温泉街を排除して、若い女性が安心して訪れられるクリーンな街づくりをして成功している。

アンノン族世代の女性たちって考えてみると、昭和という激動の時代を生きながら、新しいスタイルを手に入れていった。女性が社会進出をするきっかけを作ったり、新しいファッションも取り入れた。女性の一人旅や海外旅行を一般化させてきたのも彼女たちだ。
現在60代~70代になる彼女たち、令和の時代になっても一番元気な世代に見えるのは、私だけかな。

あかちん

学生時代は旅とバイトに明け暮れ、卒業後、当時の女子高生に絶大な支持を得ていた某アパレルショップチェーンに入社。販売員、店長、生産企画から物流まで30年近くもファッションに携わる。
某大手アパレルに買収されたのを機に、全く畑違いの会社の企画部門に転職する。