第1回:昭和39年『東京オリンピック』

映画とは、社会を映す鏡でもある。

なかでも多くの観客の共感を得たヒット作には「時代の空気」が濃厚に反映されている。

昭和39年の興行ベストワンは市川崑監督の『東京オリンピック』。はたしてフィルムに残された空気は、なにを語ってくれるのだろうか?

昭和39年(1964年)。高度経済成長の真っただ中で躍進を続ける我が国の中で、映画業界は明らかな衰退をみせていた。

最盛期には7663館もあった映画館数は5366館へと3割減。11億2745万人でピークを極めた入場者数に至っては5億1200万人へと半減。もはや構造的な斜陽産業といっても過言ではない落魄ぶりだ。

その原因は言うまでもなくテレビの普及にある。テレビにあって映画にはない最大の特徴は、現在進行形の出来事をリアルタイムで共有できる圧倒的な即時性だ。なかでも前年の11月に、史上初の日米衛星テレビ中継の試験中に発生し、そのまま臨時ニュースとして報道されたケネディ大統領暗殺事件は、その強みを遺憾なく印象づけたエポック・メイキングとなった。

かつては「大衆娯楽の王様」として君臨した映画が、黄昏を迎えつつあった昭和39年。時代はどんな作品を求めたのだろうか?
興行ベスト10の一覧表を見ていこう。

第2位にランクインした『愛と死をみつめて』は、2億円を超えれば大ヒットだった時代に、4億7500万円という驚異的な配給収入を叩きだした文句なしの話題作だ。実話系難病ものの嚆矢としてだけでなく、主演の吉永小百合にとっても、清楚可憐なルックスを良い意味で裏切る鬼気迫る演技によって、女優としての実力を遺憾なく印象付けた代表作のひとつと言えよう。

第5位は『日本侠客伝』。すべての仁侠映画のプロトタイプにして、デビュー以来長く雌伏の時に甘んじた高倉健という俳優に「耐えに耐えて筋を通す男の中の男」というパブリックイメージを確立させた記念碑的作品だ。高倉はこの翌年、続編の『日本侠客伝 関東編』と並んで、もう一つの代表作『網走番外地』シリーズ3本を興行ベスト10へと叩き込み、不動の大スターとしての地位を確立する。

どちらの作品も「難病もの」「仁侠もの」というサブジャンルのフォーマットを一作で完成させた記念すべき原型として、また日本を代表する俳優の飛躍の一本として、映画史に刻まれるべき作品である。にも関わらず、こと配給収入に関していえば、第1位との間には桁が一つ違うほどの差が開いてしまっている。それほどまでに『東京オリンピック』という映画は凄まじい大ヒット作だったのだ。

本作に関しては、時のオリンピック担当大臣河野一郎(現防衛大臣河野太郎の祖父)が「記録性を無視したひどい映画」とイチャモンをつけたという有名な逸話が残されている。ドキュメンタリー映画に対する評価が「芸術か記録か」という価値観の相違によって相半ばすることは少なくないが、21世紀の視点で冷静に見ても、モダニストとして知られた監督市川崑らしい構築的映像美が素晴らしく見ごたえあることは事実だが、スポーツ競技の記録としては中途半端な仕上がりだというのが正直なところだろう。

そもそもこの映画、競技の結果やアスリートの順位にはとことん無頓着だ。表彰台の描写はあってもイメージ映像に終始し、誰が何位に入ったという具体的なフォローはない。選手名のテロップも競技によって出たりでなかったり。極端な例では、メダル争いの決着がつくまえに出番が終わってしまう競技さえ少なくない。

いったいどうしてそんなことが許されたのかといえば、有名選手の名前やメダルの行方は、当時の観客にとって周知の事実であったからだ。東京オリンピックの期間中は、比喩ではなく文字通りに、日本中が固唾を呑んでテレビにかじりついていたのだ。たとえば「東洋の魔女」として注目を集めた女子バレーボールの決勝戦においては、視聴率85%というありえない記録が残されているほどだ。

にも関わらず本作が驚異的なヒット作になったのは、日本人にとって1964年のオリンピックがどのような意味を持つイベントだったのかという心理的な側面を余すところなく活写したことで、時代の空気へと的確に働きかけることに成功したからであろう。端的にいうならばそれは、太平洋戦争の敗戦国として焼け跡から必死で復興を果たし、国際社会から再び一流国として認められたことに対する喜びと誇りに他ならない。

長い間、日本人にとって「東京オリンピック」という単語は、日中戦争の影響を受けて開催権を返上した幻の1940年オリンピックを指していた。軍閥の台頭によって戦争へとひた走る過程で失われた繁栄と国際的信用の暗喩とも言うべき黒歴史である。1964年の東京オリンピックは、非白人国家で開催された最初のオリンピックというだけでなく、日本人にとっては1940年のリターンマッチであり、一度は手にしながら自らの失態で失った国家としての面目を取り戻すための挑戦として認識されていたはずだ。

そんな心理的背景の反映であろうか、1964年の東京オリンピックには、太平洋戦争にまつわる哀しい記憶を、華々しい光景で上書きするような場面がいくつも見受けられた。本作の冒頭において、躍動感あふれる編集で美しく記録された開会式こそは、それらが最も象徴的に集約された瞬間でもあった。

21年前の同じ10月、頬を打つ氷雨の中を戦地に向かう運命を余儀なくされた大学生たちの姿があった。出陣学徒壮行会である。その会場であった明治神宮外苑競技場こそは、オリンピック開会式の舞台である代々木国立競技場の前身に他ならない。いまそこに、民族を、思想を、国家を超えて、スポーツ競技という純粋な目的のために集まった世界の人々の姿がある。しかもその場所で大会名誉総裁として開会宣言を行ったのは、昭和天皇その人である。かつて、連合国最高司令官として日本占領の陣頭指揮をとったマッカーサーが、その年の4月にひっそりと世を去った事実と重ね合わせれば、そこには確かに、日本という国がたどった数奇な運命が刻まれていることがわかるはずだ。

もちろん映画には、それらのことに対する直接的な言及はない。けれども作品に込められたメッセージは、冒頭とラストを飾る、真正面から見据えた旭日の映像からも明らかである。ワイドスクリーンの中央に浮かぶ不滅のかがり火のような真っ赤な太陽が、長方形の銀幕に移し替えられた日の丸そのものであることは、日本人ならば誰もが直観できるはずだからだ。

Japan will rise again

軍事力によるものではなく、科学・経済・文化といった平和的手段による国家の復権を、世界に向かって高らかに宣言する。それこそが、映画の持つ共感喚起力という強みを縦横無尽に駆使して『東京オリンピック』という作品が表現しきったテーマであり、昭和39年の日本で爆発的な大衆の支持を集めた理由なのだ。

今回からはじまった『銀幕ドル箱番付』。

次回以降も、邦画のヒット作を通して「時代の空気」を蘇らせていく。乞うご期待。

ファッションプロデューサー 昭和風俗研究者
西式 豊

勤めていたアパレル会社がまさかのコロナ倒産。
いきなりフルタイムの中小企業経営者へと転身。
時代も自分も先が見通せなくてほとほと困惑中。