第2回:昭和42年『黒部の太陽』

映画とは、社会を映す鏡でもある。

なかでも多くの観客の共感を得たヒット作には「時代の空気」が濃厚に反映されている。

昭和42年の興行ベストワンは熊井啓監督の『黒部の太陽』。はたしてフィルムに残された空気は、なにを語ってくれるのだろうか?

東京オリンピックの大成功によって、アジアの先進国として世界的な評価を勝ち得た日本は、いまだ破られない史上最大の好景気を迎えつつあった。世に言う「いざなぎ景気」である。
この時期の日本を例えるならば「イケイケ」の一語に尽きよう。GNPは毎年10%超で成長し、庶民の間でも3C(カー・クーラー・カラーテレビ)が一家に一台の勢いで普及していった。
ファッションの世界に目を向ければ、なんといってもミニスカートの大流行。時代のアイコンとも言うべきイギリスのスーパーモデル、ツィギーが来日を果たしたのもこの年だ。
お洒落を楽しんでいたのはなにも女性ばかりではない。ものの本によれば当時の独身男性は収入の22.5%を洋服購入にあてていたという記録もあるくらいだから、好景気の成果は社会の末端まで確実にトリクルダウンしていたわけだ。
いずれにしても、焼け野原にトタン板でバラックを建て、ろくに洗濯もできない国民服やモンペを戦時中からずっと着続け、日々の食事にも事欠く有様だった終戦直後の悲惨な生活がほんの二十年数前の出来事だったことを思えば、奇跡か魔法を思わせるような豊かさだ。

「もはや戦後ではない」という認識さえ完全に過去のものとなった昭和42年。時代はどんな作品を求めたのだろうか? 興行ベスト10の一覧表を見ていこう。

なにより目を引くのは2位から6位までを東宝作品が独占していることだ。中でも特筆すべきは、都合3作も関連作品をランクインさせたクレージーキャッツの無双ぶりであろう。
本稿でとりあげる『クレージー黄金作戦』は、東宝創立35周年記念作品という金看板を背負って、日本映画初のアメリカ本土ロケを敢行した歴史に残る一本だ。
「金が宇宙をまわしてる♪」とラスベガスの目抜き通りを歌い踊りまくるミュージカルナンバー『ハロー・ラスベガス』から、ザ・ピーナッツやブルーコメッツをゲストに迎えて繰り広げられる『ウナ・セラ・ディ東京』へと続く一連のシークエンスは、今の目で見てもゴージャスさにためいきが出るほどで、インド映画にも通じる非日常的な多幸感をたっぷりと味合わせてくれる。
ちなみに本作のヒロイン役である浜美枝は同年公開の『007は二度死ぬ』でもボンドガールとして出演しており「洋の東西を行き来して海外ロケの大作映画に連続出演する」という前人未踏の離れ業によって、日本の国際化を体現する活躍をみせた。

クレージーと共にこの時期の東宝を支えた加山雄三演ずる若大将シリーズからは『ゴー!ゴー!若大将』がランクインしている。
本作中盤の見せ場は学生ラリー選手権とあって、自動車に関連する描写が頻出する。学生たちが当然のように運転免許を保有し、ピカピカのハイウェイを使って大都市を行き来する様子からは、日本のモータリゼーションが既に成熟の段階に入ったことが読み取れる。また、ザ・ランチャーズを率いた加山が熱唱する文化祭シーンからは、物質的にも精神的にも豊かさを謳歌する当時のキャンパスライフの一端をうかがうことができる。いずれにしても、いざなぎ景気真っ最中だからこそ成立した作品といえるだろう。

右肩あがりの経済を如実に反映させたそれらの作品を制して第1位に輝いたのが『黒部の太陽』である。三船敏郎と石原裕次郎という二大トップスターがそれぞれの独立プロを率いて共同製作した実話系映画の超大作だ。

関西地区の慢性的電力不足を解消すべく計画された黒部ダムの工事において、最大の難所となった大町ルートのトンネル採掘工事を描いたその内容は「敗戦の焼あとから国土を復興し文明をきずいてゆく日本人たちの勇気の記録」として、時代の気分にぴったりとマッチしていたのだろう。関西電力をはじめとした関連企業が製作協力に名を連ねていることからも、いわゆる『プロジェクトX』的な、先人の偉業を称えると同時に観客が励まされる作品にするとの名目で資金集めが成されたであろうことは想像に難くない。

ところが、令和の現在という視点からあらためて全編を鑑賞すると、不思議なことに心に残るのは、底なしの寂寥、あるいは拭い難い贖罪意識としか表現のしようのない、寒々とした感情に他ならないのだ。

三船敏郎演じる電力会社幹部は、工事現場を離れることが出来ず、トンネル開通のまさにその日に、末期ガンの娘の逝去を電報で知らされる。石原裕次郎演じる若い技術者は、人命軽視の昔気質な現場親方として疎んじていた父親の死に目にあって、彼自身が過去のトンネル事故のトラウマで深く精神を病んでいたことを知る。

本作のラストシーンは、そんな二人が完成になった黒部ダムを訪れる数年後の光景である。峻険な稜線に昇る旭日をバックに流れる勇壮極まりないBGMは、自然を制圧した日本人の勝利を高らかに歌い上げているかのようにも見えるが、それよりも印象深いのは、丹念に撮影された工事殉職者慰霊碑と、そこに氏名を刻まれた人々の171名というとんでもない数に他ならない。歴史の教科書には決して載ることのない工夫たちの多数の犠牲があったからこそ、黒部の太陽は今も輝き続けているのだ。

光あるところには、必ず影が生まれる。

昭和42年という年は、高度経済成長の背後に隠されていた様々な矛盾やひずみが一気に顕在化してきた年でもあった。
モータリゼーションの急速な発展は、一方で交通事故の激化をもたらしていた。この年の死者は13,618名。(現在の約4倍以上)犠牲者の数が戦争の規模に匹敵することから「交通戦争」という言葉が生まれたのも無理はない。
公害や環境汚染の深刻さが注目を集めたのもこの年のことである。新潟の第二水俣病や四日市ぜんそくの患者たちが汚染源企業を相手取った訴訟を起こしたことで、それまで一地方の問題として看過されがちだった公害が、行き過ぎた経済活動の弊害として認識されはじめたからだ。水俣病を例にとれば、原因が工場排水にあることは既に昭和30年代に突き止められていたにも関わらず、政府や企業が産業の振興を優先するあまり抜本的な対策を怠り、それがために被害がさらなる拡大をみせてしまったことは誰の目にも明らかだった。

他国もうらやむ夢のような経済成長の背後で、知らず知らず国民が払わされていた大きなツケから、もはや目を背けることが許されなくなった昭和42年。娯楽としての映画が大衆の浮かれ気分に華を添える一方で、いちはやく時代の闇に反応し、現代へとつながる問題提起を残した映画も存在した。
『黒部の太陽』という作品は、そこに描かれた歴史的難工事の栄誉以上に、その冷徹な視点によってこそ誇られるべきであろう。

ファッションプロデューサー 昭和風俗研究者
西式 豊

勤めていたアパレル会社がまさかのコロナ倒産。
いきなりフルタイムの中小企業経営者へと転身。
時代も自分も先が見通せなくてほとほと困惑中。