第3回:ちょっとだけ陸(おか)サーファー

昭和50年代半ば、婦人服アパレル専門店に入社した私、知性はともかく、感性にはちょっと自信があった。ところが入った会社には、おしゃれな人、個性的(ちょっと変)な人が目白押しだった。ポキッと鼻を折られた私は、男性のためのファッション雑誌として創刊された「ポパイ」に頼ることにした。キレイなお姉さんの肌の露わな写真が載っているのを男性雑誌だと思っていた私が、初めて雑誌を読んで勉強した。おしゃれな若者の代名詞だった「ポパイ少年」を目指したのであった。

そのころ誌面を賑わせていたのは、巷で流行っていたサーファーファッション。海はもちろん街にも俄かサーファーが溢れていた。トップスは、マークが印象的なサーフブランドのタウン&カントリーやライトニングボルトのTシャツ、湘南のサーフショップ「ゴッデス」のTシャツなんかも人気があった。ボトムスは、FARAH(ファーラー)ホップサックのパンツ。シューズはトップサイダーのデッキシューズだ。

そういえばホップサックという言葉も目にしなくなった。ざっくりしたラフな感じのかごの目状に織られた生地のこと。ユニクロのジャケットなんかでも、ときどき目にすることがあるけど、今の若い人は織り方の名前なんか興味がないから説明もしていない。

私が入った会社、新人はみんなお店に立って販売を経験しなければならなかった。若い女性をターゲットにしたお店だったから、おしゃれに見られたくて、ポパイで学んだサーファーファッションを取り入れた。さすがにTシャツで接客はできなかったから、オックスフォードのボタンダウンのシャツに、FARAHのホップサックパンツ、皮革のトップサイダーのデッキシューズが定番だった。他の新人たちも、みんな似たり寄ったりの格好をしていた。

そんな私たちのような、かっこだけのサーファーのことを世間では、ちょっと嘲りのニュアンスを含んで「陸 (おか) サーファー」と呼んだ。でも、私たちは陸サーファーと呼ばれても全く意に介していなかった。おしゃれをすることって、ファッション雑誌に載っている流行をそのまま信じて、それをコピーすることだと思っていた。だから同じような服を着て、同じものを持っている人がいても全く気にならなかった。

それから陸サーファーに忘れてならないアイテムが「赤いファミリア」。私のようなちょっとだけの陸サーファーと違い、本格的?な陸サーファーは、クルマにルーフキャリアを付けて、乗ったこともないサーフボードを積んで六本木のディスコなんかに繰り出していた。なにもそこまでしなくてもと思うけど、それがカッコいいと思っていたんだから仕様がない。そんな人たちに人気があったクルマが、マツダの赤いファミリアだった。サニーもカローラも抜いてダントツな人気になるのだから、陸サーファーの購買力をバカにしてはいけない。

いま思うと、そのころの男の行動原理ってほんとに単純だった。女の子にモテたい、カッコよく見られたいしかなかった。勉強して優等生になるのも、服や雑貨に投資しておしゃれをするのも、女の子にモテたい一心だ。デートするとき二人の世界になれるクルマはデートの必需品。だから、少しでも女の子に気に入られたくてアルミホイールを変えてドレスアップしたり、音楽のセンスをアピールしようとカセットテープに貸レコードからダビングしたり、FM放送からエアチェックしてとっておきのカセットテープをつくった。もちろんクルマも音楽もそれ自体好きだったけど、同時に異性はもちろん、同性からもカッコ良く見られたい、思われたいという気持ちが強かった。

今どきの若い人は、異性からモテたいという気持ちよりも自分の気持ちや趣味が大事な人のほうが多いそうだ。そんな男の子たちを見て物足りないと思うのはなぜなのだろう。なんとなく自分の殻に閉じこもって、冒険をしていないように思うからなのか。未来を託す若者は何事にもチャレンジングであってほしいものだ。

あかちん

学生時代は旅とバイトに明け暮れ、卒業後、当時の女子高生に絶大な支持を得ていた某アパレルショップチェーンに入社。販売員、店長、生産企画から物流まで30年近くもファッションに携わる。
某大手アパレルに買収されたのを機に、全く畑違いの会社の企画部門に転職する。