映画とは、社会を映す鏡でもある。
なかでも多くの観客の共感を得たヒット作には「時代の空気」が濃厚に反映されている。
昭和49年の興行第2位は舛田利雄監督の『ノストラダムスの大予言』。はたしてフィルムに残された空気は、なにを語ってくれるのだろうか?
昭和46年。大映の倒産と日活のロマンポルノへの転向により、邦画製作主要五社体制は崩壊し、映画界の衰退は底を極めるに至った。
今回とりあげる昭和49年は、東宝・東映・松竹という残されたメジャー三社がそれぞれヒット作品に恵まれ、久々に興行が活況を見せた〈映画復興の年〉として記憶されている。昭和45年以来公表が差し控えられていた「年度別日本国内興収記録」が、4年ぶりにランキングを発表したことからも、業界関係者の安堵をうかがうことができる。
それでは、興行ベスト10の一覧表を見ていこう。
1位『日本沈没』、2位『ノストラダムスの大予言』は、ともに東宝のパニック超大作。3位の『砂の器』は名作の誉も高い松本清張原作の推理巨編。いずれも充分な予算と念入りな宣伝の行われた話題作が独占する形になった。残る東映もカラテアクションや実録やくざ路線といった新たな鉱脈を得て、5位以下を独占し手堅い実績を見せている。
いずれにしてもそのラインナップから明らかになるのは、観客の足を映画館に向けさせるには、メディアを総動員して話題性という付加価値をつけるか、固定ファンをターゲットとしたニッチなジャンルに特化するか、いずれかの方法を選ぶしかないという、21世紀の今日に至るまで厳然と継承される邦画特有の製作メソッドが、この時点で確立されたという事実だ。本稿でメインに取り上げる『ノストラダムスの大予言』は、前者を代表する典型的なサンプルである。
言うまでもなく本作は五島勉による同一タイトルの大ベストセラーを原作としている。ノストラダムスの予言詩を分析し、1999年の滅亡までに人類が体験するであろう災厄の数々を微に入り細に入り解説した書物をベースにして、まがりなりにも物語仕立ての娯楽作品に仕上げようというのだから、もとより難易度の高い映画化である。なにゆえこれほどリスキーな企画が通ってしまったのかといえば、先行する『日本沈没』という大ヒット作品の二匹目のドジョウを、間髪入れずに公開したいという営業面での要請があったからだろう。
とはいえ、当代きってのストーリーテラーである小松左京が、入念な取材をもとに描いたハードSFであった『日本沈没』と違って、『ノストラダムスの大予言』はあくまでもノン・フィクションという建前で書かれた書物である。主役であるノストラダムスは史上最高の予言者という触れ込みの割には本国フランスでさえマイナーな存在。そのうえ執筆者の五島勉氏は、陰謀系歴史実話から恋愛指南書までなんでもござれな手練れのライターだというのだから、その胡散臭さは隠しようもない。にも関わらず本書が250万部という記録的な大ヒットになったのは、そこに書かれた内容が迫真のリアリティをもって感じられるような社会に、実際の日本がなっていたからに他ならない。
アラブ諸国とイスラエルの間で再燃した中東戦争は、東西冷戦の激化による第三次世界大戦の勃発を危惧させずにはいられなかった。
東京湾の魚介類からは基準値を超えるPCBが、築地市場ではマグロから水銀が相次いで検出され、我が家の食卓も汚染されているのではないかという不安が日本中を駆け巡った。
テレビをつければユリ・ゲラーが超能力でスプーンを曲げ、自分にも念力が使えると自称する少年少女たちが続々と名乗りを上げた。
ようするに昭和49年の日本では、世界の破滅も重篤な環境汚染もオカルトの実在も、すべてが現実の延長線上に存在していたのだ。
ところが、実際にできあがった映画はどのような内容だったのかといえば、巨大ナメクジの出現、一夜にして繁茂する植物、オゾン層の破壊による蜃気楼の出現と、ひととおり尋常ならざる天変地異を描いてはいるものの、どれをとっても見た目が気持ち悪いだけで、多大な人的被害が出ているわけではないことに驚かされる。(核戦争後のミュータント誕生という破滅的な描写もあるが、実は夢オチに過ぎない)
冨田勲の流麗かつ神秘的な音楽と、岸田今日子によるおどろおどろしさ全開のナレーションに乗って展開されるクライマックスの災厄は、天候不順による世界的な凶作→食糧輸入の途絶→政府が備蓄食料を放出するも各地で買い占めが発生→略奪がはじまり都市部が無法地帯となる→東京脱出を試みるマイカーで首都高が大渋滞→心無いドライバーが痺れをきらして暴走→玉突き衝突で火災発生→多数の焼死体でハイウェイが埋まる、という地に足のつきまくった国内パニックの描写であり、〈恐怖の大王〉などおよそ出番のない庶民レベルの地獄がひたすらネチっこく連鎖していくのだ。
いったいどうして、多額の予算を投じたディザスター巨編が、こんなにも身の丈の話になってしまったのか?つまるところそれは『ノストラダムスの大予言』という書物が日本人に与えた恐怖の本質が、いまこの瞬間に目の前で展開されている現実にこそあったという事実を、映画というメディアが鋭敏に察知した結果なのではないだろうか。
前年10月。第四次中東戦争によって引き起こされたオイルショックは、トイレットペーパーや洗剤をはじめとする生活必需品の買い占めを誘発し、首都圏の各スーパーは殺到する消費者でパニック状態となった。
年が明けると、慢性的な物不足は狂乱物価となって顕現した。電気料金が平均1.5倍に跳ね上がったのを皮切りに、交通インフラ、米価、医療などのライフラインが一斉に値上がりし、庶民の生活を直撃した。
わずかな配給品を求めて行列を作り、悪性インフレに翻弄される日々。その光景は、二度と再び味わうことはないと誰もが安心していた、終戦直後の窮乏生活の再現そのものとして受け取られたはずだ。この年の実質GNPが戦後初めてのマイナスを記録したことも、高度経済成長の時代が終焉を迎えたことを強く印象付けたに違いない。
戦後30年。汗水たらして必死で働きようやく手に入れた一等国の地位と物質的な幸せを失ってしまうかもしれないという不安。当時の日本人にとっては、それこそが〈恐怖の大王〉そのものだったのだ。
様々な事情によってソフト化の成されていない本作は、令和の今日では容易に観ることのできない幻の作品となってしまっている。
けれども、例え鑑賞環境が整っていたとしても、当時の日本人が本作からうけとった恐怖を、現代の観客が同じように体感することはもはや不可能なはずだ。
もしそれが、時代の空気と完璧なシンクロを果たしたことと引き換えに作品が課せられた代償なのだとしたら、むしろ偉業として認識するべきなのかもしれない。
ファッションプロデューサー 昭和風俗研究者
西式 豊
勤めていたアパレル会社がまさかのコロナ倒産。
いきなりフルタイムの中小企業経営者へと転身。
時代も自分も先が見通せなくてほとほと困惑中。