第4回:やんちゃな竹の子族

昭和50年代の半ば、ホコ天(歩行者天国)が行われた原宿、代々木公園横では「竹の子族」と呼ばれ、派手な衣装に身をつつんだ若者たちがディスコサウンドに合わせて踊っていた。最盛期には50グループ、2,000人以上が路上で踊っていたという。ホコ天でしかも大音量を出して踊ろうものなら、今だったら確実に警官が飛んでくる。

参加している若者は主に中・高校生。新宿や渋谷などの繁華街のディスコには未成年だから入れない若者たちがホコ天を目指して集まっていた。踊る衣装は少しでも目立つようチームごとに競い合ってデザインし自作していた。自作以外の衣装は竹下通りにある「ブティック竹の子」で購入していた。それが「竹の子族」と呼ばれる由縁になる。基本の衣装はハーレムスーツ。原色、蛍光色の生地で上下だぶだぶのシルエット。上着や名札を漢字で刺繍したり、ロングネックレス、ぬいぐるみなどで飾り立てた。踊りやすいようにパンツは足首をギャザーで絞り、足元も上履きやカンフーシューズを履いていた。さらにギャラリーの注目を集めるため男女を問わず鮮やかなメイクをほどこす。さすがにそんな恰好で電車に乗れないから、着替えやメイクを原宿駅のトイレと代々木公園で行なっていた。

竹の子族たちが踊る曲は、ノーランズ、ジンギスカン、アラベスク、ヴィレッジ・ピープルやボニーM等のキャンディ・ポップと呼ばれたダンス・ナンバー。なぜか松田聖子や沢田研二といった歌謡曲も混ぜ合わせていた。なんでもありでなつかしい。そんな曲を家庭用だが大きめのラジカセで大音量にして流して、グループみんな同じステップを踏む。電源なんかもちろんないから音楽が途切れるたびに単一電池を替えていた。

なんか手作り感満載で微笑ましい。そんなイベントに多いときには2,000人もの竹の子族がホコ天で踊り、見物するギャラリーが数万人にもなって立派な社会現象になっていた。そのころ専門店の販売員をしていた私は、竹の子族たちのファッションをおしゃれだと思ったことは一度もなかったし理解もできなかったが、ブティック竹の子が年間10万着も売っているのを知って、見に行くようにしていた。それまで、たくさん売れる服はおしゃれじゃないと駄目だと思っていたが、おしゃれじゃなくても売れるものがあった。ブティック竹の子にはマーケッティングというものの面白さや奥深さを教えてもらった。ちなみに私が働いていた専門店は大手アパレルに買収されて無くなってしまったが、ブティック竹の子は今でも立派に営業している。ブティック竹の子の商品を馬鹿にしていた私だったが、馬鹿だったのは私だった。

今思えば昭和の時代って、なんでも単純でわかりやすい時代だった。ちょっとやんちゃな若者が変な格好で踊っていただけなのに、日本中が注目する社会現象になる。おもしろいものには日本中みんな一緒に熱中した。「なめ猫」が流行ったのも、ちょうどこのころだ。

それが、昭和50年代の半ばを過ぎるとマーケティングの世界では、それまでの「大衆」に対して「少衆」、「分衆」とかいう概念が生まれた。みんなで同じものを見たり、買ったりする時代は終わった。人々の暮らしが豊かになってくると他人との差別化のため、違うものを求める、だから少品種のものをそろえなければならないというのが「小衆・分衆論」だ。確かにそういう面もあるけど、その後もメガヒット商品は頻繁に発生している。そんな「大衆だ」「小衆だ」と単純に割り切れるものではなく、消費って世の中同様、複雑に絡み合って集中したり分散したりを繰り返すのだろう。

個人的な感覚だと、昭和50年代終盤のやんちゃなだけだった竹の子族の流行の終焉のあたりが、消費だけでなく行動、趣味・趣向など世の中が多様化して分散も始まった出発点だ。それまで単純でゆっくり流れていた昭和の時間が加速を始めた感じだ。その後バブルがあったり、はじけたり、インターネットが急速に発展したりして、平成では世の中が劇的に変わってしまった。令和となった現在、昭和世代の我々にはついていくのが大変な世の中になった。

あかちん

学生時代は旅とバイトに明け暮れ、卒業後、当時の女子高生に絶大な支持を得ていた某アパレルショップチェーンに入社。販売員、店長、生産企画から物流まで30年近くもファッションに携わる。
某大手アパレルに買収されたのを機に、全く畑違いの会社の企画部門に転職する。