第5回:昭和54年『銀河鉄道999』

映画とは、社会を映す鏡でもある。

なかでも多くの観客の共感を得たヒット作には「時代の空気」が濃厚に反映されている。

昭和54年の興行第1位はりんたろう監督の『銀河鉄道999』。はたしてフィルムに残された空気は、なにを語ってくれるのだろうか?

構造的な不況にあえぐ邦画業界に『犬神家の一族』で殴り込みをかけた角川映画は、大作一本立て興行という新たなヒットの方程式を生み出した。
見事に前作を超える興収をたたき出した角川映画の第二弾『人間の証明』。撮影隊自体も凍死しかかるほど過酷なロケを敢行し、歴史的な山岳遭難事故をリアルに再現した東宝の『八甲田山』。「祟りじゃあっ!」の名セリフとインパクト抜群の三十二人殺しによって横溝正史ブームの頂点を極めた松竹の『八つ墓村』。邦画各社は存分にその果実を分け合う結果となった。

そんな中、プログラム・ピクチャーの量産による安定的な集客で業界をリードしてきた東映だけが、過去の成功したビジネスモデルがかえって障害となり、ひとり後塵を拝する結果におわっていた。
昭和52年8月決算で初の減収減益を記録した同社は、帝大卒で撮影所育ちの叩き上げ岡田茂社長のもと大規模なリストラ策を敢行。制作部門から営業部門への配置転換を柱とした撮影所機能の縮小といった地道な体質改善を粛々と進めながら、「時代劇の東映」の威信をかけた超大作『柳生一族の陰謀』の成功によって、翌年には経常利益を一気に三倍に伸ばすという大逆転をやってみせた。

邦画をとりまく環境が再び活況を呈しつつあった昭和54年。時代はどんな作品を求めたのだろうか? 興行ベスト10の一覧表を見ていこう。

なによりも驚かされるのはリストの中にいわゆる「大作」が一本も存在しないという事実だ。もちろんこれは大作一本立て興行の波が早くも陳腐化した結果ではない。翌55年には『影武者』『復活の日』『二百三高地』といった各社渾身の勝負作がランキングを席捲することを考え合わせれば、多大な製作期間を要するがゆえに不可避的に生じる〈大作の空白期間〉だったと理解すべきだろう。
そういう意味では、天の配剤による僥倖というニュアンスがいささか強いとはいえ、日本映画史上はじめて年間興収1位となったアニメーションという意味でも、『銀河鉄道999』という作品が歴史に残るタイトルであることは間違いない。

本作は、漫画家松本零士の言わずと知れた代表作の一つを劇場版にしたものだが、単体映画作品として観ても十分に成立するクオリティを確保する目的で、原作とも先行するTV版とも完全に差別化された独自の物語を有することになった。
なによりも特徴的なのは、主人公星野鉄郎の年齢を10歳から15歳へと引き上げたことで、様々な停車駅での体験を通して子供の視点から異世界を描く旅行記という体裁から、過酷な旅によってたくましく成長する少年の自立の物語へと、その本質を大胆に変えてしまったという点だ。前者のオムニバス形式は、雑誌連載やTVシリーズには最適だが、二時間尺の映画ではどうしてもダイジェスト的な印象を与えてしまう。対して後者では「ゆきてかえりし」という神話的構造に収斂するがために、原初的で力強い物語が可能となる。幾多の長編アニメ製作で培った東映動画スタッフの知見の深さがうかがえる見事なアレンジだ。
一方で、ハーロック、エメラルダス、トチローといった、いわゆる松本式スターシステムによる脇キャラクターの登場は、予備知識なしに観た場合にはあまりにも唐突すぎるのが事実であり、現代の観客が楽しむうえでは、当時の日本を席捲した松本零士ブームの総決算という前提に対する理解が必要となるだろう。

実を言えば、ブームのきっかけとも言うべき『宇宙戦艦ヤマト』劇場版の配給を子会社の東映洋画で引き受けさせたのも、前述の岡田社長の決定であった。同作の元となったテレビ版が『アルプスの少女ハイジ』の裏番組で、低視聴率のまま打ち切りとなったのは有名なエピソードだが、後のインタビューで岡田本人がいみじくも「あんな当たりをみせるなんて誰も思ってもみなかった」と述懐するように、その時点でのヤマトは完全な際物コンテンツでしかなかった。予想外のヒットを生み出したのは、一部の熱狂的ファンによる徹夜組をも含んだ大行列を生むほどのフィーバーが、マスコミによって珍奇な新流行として興味本位で取り上げられたことに端を発している。

学生運動の狂熱も、ロックの誕生も、すべてが過去になった70年代後半。自らを遅れてきた世代と任じていた当時の若者たちの一部は、それまで子供向けのメディアとして軽んじられてきたアニメや特撮のなかに〈我らの文化〉を見出しはじめていた。インターネットさえない時代にファン同士の連携を可能としたのは、当時あいついで創刊されたサブカルチャー雑誌の存在だった。
中小出版社が手掛けるティーン向け出版物は、編集のマンパワー不足の必然的帰結として読者投稿にページの多くを割いていたが、それゆえに、良い年をしてアニメ好きという新たな消費層の受け皿として大いに重宝されることになったからだ。感想、考察、パロディー、二次創作。その紙面はファン同士の交流の場として活況を呈し、ジャンルの隆盛をさらに拡大する原動力になった。当初は都内4スクリーンのみでの限定公開に過ぎなかったヤマト劇場版が、あれよあれよという間に10億以上の興収をあげることができたのも、文化の受け手であると同時に発信者でもある、彼らアニメファンの存在があったからこそ実現したものだ。
そういう意味でも、この時点で松本零士ブームとして認識されていた熱狂は、決して一過性の流行などではなく、令和の現代まで連綿と続くジャパニメーション文化の力強い胎動だったと理解すべきものだろう。それが証拠にこの年昭和54年は、宮崎駿の『カリオストロの城』、富野由悠季の『機動戦士ガンダム』、大友克洋の『ショート・ピース』等々、シーンをリードするクリエイターたちが飛躍の基礎となる足跡を刻んだ記念すべき年でもあるのだ。

インベーダーゲームの大ブーム。家庭用パソコン(NEC PC-8001)の発売。ウォークマンの発表。日本経済というマクロの視点においても、後の日本を象徴するような画期的プロダクトが相次いで生み出されたのがこの年であった。
翌年のイラン革命による第2次石油ショックのために若干足踏み状態になるとはいえ、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代を支えるカードは既に手元にそろっていたというわけだ。

翌年から西暦は80年代に突入する。日本の歴史上、最も平和で満ち足りた時代は、もうすぐそこにまで来ていた。
銀河鉄道で星の彼方へと旅立った少年の、希望に満ちた瞳の色は、そんな予感を写し取ったものだったのかもしれない。

ファッションプロデューサー 昭和風俗研究者
西式 豊

勤めていたアパレル会社がまさかのコロナ倒産。
いきなりフルタイムの中小企業経営者へと転身。
時代も自分も先が見通せなくてほとほと困惑中。