第6回:昭和58年『時をかける少女』

映画とは、社会を映す鏡でもある。

なかでも多くの観客の共感を得たヒット作には「時代の空気」が濃厚に反映されている。

昭和58年の興行第2位は大林宣彦監督の『時をかける少女』。はたしてフィルムに残された空気は、なにを語ってくれるのだろうか?

たとえどれほど完璧に正しく記録された統計であっても、極めて感覚的な世相や気分といったものまでもが、そこに記された数値に反映されていると考えるのは禁物である。
昭和58年という年は、内閣府による景気基準によれば第9循環の後退局面のどん底として位置付けられているが、日本の庶民たちの多くが感じていたのは、生活の質や文化的な豊かさが、年を追って向上しているという明るい展望に他ならなかった。
第2次石油ショックのダメージを、先進国中で最も軽微に切り抜けた日本は、レーガン政権によるドル高を背景とした価格競争力を武器に、過去最高の貿易黒字を毎年のように更新していた。自動車生産台数がアメリカを上回り世界一となったと聞いて、こと経済においては、かつての占領国に対して完全な逆転勝利をおさめたという自負心と誇らしさを、胸に抱かない日本人はいなかったはずだ。

総理府の世論調査では「今後の生活でどのような面に力を入れたいか」という設問において「住生活」を抜いて「レジャー・余暇」がはじめて首位へと躍り出ていた。
いうまでもなくこれは〈衣食住に困らないことが普通〉〈豊かであることが普通〉という幸福な時代が到来したことを意味している。
4月にオープンした東京ディズニーランドは、その事実を端的に象徴する時代のモニュメントと言えるだろう。
一方で、その同じ年に最も視聴率を稼いだドラマは、明治生まれの女性の壮絶な一代記『おしん』であった。一見すると時代の空気の真逆をいくかのようにも思えるが、大根めしに代表される貧困生活の記憶が、もはや視聴者の脳裏に生々しい痛みを蘇らせないほど過去のものとなったがゆえに、娯楽として享受することが可能になったのだと理解すべきだろう。

そんな社会の豊かさを反映するかのように、この年の映画興行はかつてないほどのヒット作を連続して輩出していた。とりわけ洋画においてそれは顕著で、『E.T.』の94億円を筆頭に、『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』の37億円、『フラッシュダンス』の33億円と、配給収入も桁違いの数値が並んだ。もちろん邦画界とて、その盛況を指をくわえてみていたわけではない。それでは、興行ベスト10の一覧表を見ていこう。

第1位『南極物語』の56億円という数値は、文句なしに当時の邦画興収の記録を塗り替えるミラクルヒットであった。それまでのトップ『八甲田山』を一気にダブルスコア以上で更新といえば、その凄まじさをご理解いただけるだろう。もちろんこれは作品の質云々以前に、製作元であるフジサンケイグループの総力を結集した一大プロモーションの結果であることは論を待たない。角川映画が打ちたてた邦画興行の必勝策、メディアミックスプロモーションによる話題性の付与というスキームを、大衆メディアの王様であるテレビ局自身がやってしまったわけだ。CMばかりか通常の番組内でも一日中作品の話題をとりあげるという徹底したそのやり口は、一方で電波の私物化と揶揄されもしたが、これほどまでに圧倒的な実績を残された以上は完全に勝てば官軍である。これ以降、令和の今日に至るまで、各テレビ局がこぞって映画製作に乗り出すという邦画特有の業界構造は、この一作のみで確立されたのだ。

自らのお家芸を横取りされた形となった角川映画も、その短い歴史における最良の季節を迎えつつあった。
『野性の証明』でデビューした専属女優薬師丸ひろ子は、映画が生んだ新たなスターとして国民的な人気を確立。前年には主演作『セーラー服と機関銃』が興収一位をマークするまでに成長していた。同年公開の深作欣二監督作品『蒲田行進曲』は、批評家からの絶賛を受けキネ旬年間ベストワンに輝き、内容のともなわない空虚な娯楽大作という、これまでの角川映画につきまとった悪名を一掃する快挙さえもたらしていた。

今回とりあげる『時をかける少女』は、角川が薬師丸に続いて売り出しをはかった新人女優原田知世の映画デビュー作である。

そもそものことの起こりは、人気絶頂の薬師丸が大学受験を控えて一年間の休業に入ることからはじまった。看板女優の抜けた穴を埋めるべく開催されたオーディションの過程で角川春樹の目にとまった原田は、当時14歳という年齢的な制約もあって入賞には至らなかったが、角川の独断で急遽設立された特別賞を授与されるという公私混同も甚だしい社長特権の延長で、とうの優勝者に先んじて次々と活躍の場を与えられていた。
監督である大林宣彦は、CMディレクターとしての世界的な名声を背景として、日本の映画史上はじめて、撮影所での下積みを経験することなく映画監督となった人物である。外の世界から映画業界に殴り込みをかけ、疎まれながらも確固たる足跡をのこしたイノベーターという立場的にも相通じるところがあり、意外にも角川春樹との相性はぴったりだったという。
互いの業績へのリスペクトをベースにした信頼感の裏付けがあったからか、角川は本作製作の真の意図を生々しく大林に吐露している。

「原田知世というのがいます。実は、嫁にしたいくらい惚れているんです。彼女のために一本だけ映画をプレゼントして引退させようと思うんです。」

ようするに本作は、お気に入りの女優の最も輝かしい一瞬を作品という形で永遠に定着させる意図で製作された完全なプライベート・フィルムであり、その本質は映画という形を借りたラブレターと言うにも等しかった。それが証拠に本作に限っては、製作費の引き落とし口座が角川春樹事務所ではなく角川春樹個人だったという逸話さえ残っている。
幸運なことに、思春期のころから自主映画製作に没頭し、映画という表現を通して理想の少女を描き続けてきた大林宣彦という映像作家は、角川のオファーを実現するにあたって最良の人選であった。

仕上がった作品は、濃厚な死とエロスのメタファーに彩られたキャッチー要素皆無の作家映画という体裁をとりながら、レンズの向こうの原田を「僕の恋人」として描ききった大林の演出は、十六歳の少女の刹那的な魅力を完璧なまでに封じ込めることに成功した。同時にそれは、本作を見た若い男性観客が、スクリーンの中のヒロインに対して強い恋情を抱かずにはいられなくなるという、アイドル映画として最も難易度の高いハードルを易々とクリアしてしまったことをも意味していた。

ビジネス的野心とは無縁の個人的な思い入れが生み出した本作は、結果として角川映画の新たなミューズ原田知世の爆誕を決定的に印象付けて、薬師丸との二枚看板によるその後の角川アイドル映画時代を力強く牽引してゆく原動力になった。こんなある種のファンタジーが現実に成立してしまったのも、この時代ならではの豊かな精神性の反映であろう。

ファッションプロデューサー 昭和風俗研究者
西式 豊

勤めていたアパレル会社がまさかのコロナ倒産。
いきなりフルタイムの中小企業経営者へと転身。
時代も自分も先が見通せなくてほとほと困惑中。