第6回:「女子大生」がもてはやされていた頃

昭和50年代、私が学生時代から社会人になった頃、それは日本が豊かになり始めたことを実感した年代だ。男女を問わずおしゃれに意識がいくようになり、モノクロだった町に色彩感が溢れ始めた時代だったような気がする。

生活感満載で白黒のイメージのするフォークソングが、シティポップと呼ばれ都会的でカラフルな山下達郎や松任谷由実などに活躍を譲り始め、町を眺めればセリカや117クーペといった流線形のかっこいい車が町を走り始めていた。
ファッションの世界でも、おしゃれな洋服は百貨店しかなかった時代から若い人でも手軽に買い物ができる専門店が生まれていた。男性ファッションだったら、VAN 、JUN、 三峰。女性の服だったら三愛、鈴屋、鈴丹などなど、たくさんの専門店がチェーン店になって、百貨店のある都心から郊外のみんなが住んでいる町の最寄りの駅ビルにまで進出していった。

そんな中、神戸が発祥の女子大生ファッション、ニュートラが生まれた。ファッション誌『an・an』が発掘し、『JJ』とともに全国に広めていった。基本はトラッドなのだが、海外有名ブランドの商品をコーディネートするスタイルだった。 ブレザーやワンピース、カーディガンなどの定番アイテムに、グッチやフェンディ、セリーヌ、エルメスなどの海外有名ブランド小物を合わせるというもの。だからニュートラディショナル、略してニュートラ。ヴィトンのマークが入ったモノグラムの巾着型ショルダーバッグなんかも人気があった気がする。関西の人たちは原色の使い方が大胆で上手、いろいろアクセントをまじえながら上手にコーディネートし、着こなしていく。アパレル専門店に勤めていた私が関西に転勤して気づいたのが、東京と着ている服の色目が違うことだったことを思い出した。

そんなニュートラの流行が関東まで広がっていくと、横浜で独自の変化を遂げていく。フェリス女学院の女子大生が横浜・元町にあるお店でコーディネートしたファッションがブームとなり、ハマトラと名付けられ、ニュートラを超える流行になっていった。典型的なスタイルは、「タツノオトシゴ」のマークのついた「フクゾー」のポロシャツやカーディガンに、大きなピンで止めてあるタータンチェックのひざ丈の巻きスカート。靴は、「ミハマ」のぺったんこなパンプス、ボンボン付きのハイソックスが似合っている。手に持っているのは、「K」のマーク「キタムラ」のショルダーバッグとバケツバッグだ。関東のファッションは関西と違って原色はほとんど使わず、パステルで「清楚」な感じがうける。ちょっと子どもっぽい感じもするが、女子大生がファッションの主役になって典型的なお嬢様ファッションを高校生からOLさんまで、幅広い年齢層の方たちに流行させたのだった。

でも、パステルカラーのお嬢様ファッションの時代は長くは続かず、昭和50年代も終わりに近づくとファッション界はガラリと変化し、川久保玲の「コムデギャルソン」や山本耀司の「ワイズ」などがパリコレに参加し「白・黒のモノトーン」が流行するようになった。「カラス族」と呼ばれ、渋谷や青山に行くとヘアスタイルを刈り上げにしている女性が多かったのを覚えている。パステルカラーに溢れていたお嬢様ファッションが刈り上げのモノトーンに変わってしまうのだから、やっぱり流行っておもしろい。
今の若者はファッションに対して熱情のようなものがなくなり流行も少なくなって、同質的なカジュアルファッションの時代になってしまったと言われているが、我々の時代は楽しいことが車やファッションや音楽とか限られていて、のめりこむことが容易だった。ところが今はファッションでも、セレクトショップからファストファッション、古着まで、チャンネルも実店舗やネットなどと豊富になった選択肢から、限られた予算の中で上手にやりくりを若者たちはしている。決して退化しているとは思わないが、みんなが同じような格好をしているのは、ちょっとさびしい感じがすることも確かだ。

あかちん

学生時代は旅とバイトに明け暮れ、卒業後、当時の女子高生に絶大な支持を得ていた某アパレルショップチェーンに入社。販売員、店長、生産企画から物流まで30年近くもファッションに携わる。
某大手アパレルに買収されたのを機に、全く畑違いの会社の企画部門に転職する。