日本人を描くため、日本列島を沈めてみました。
小松左京『日本沈没』
ベストセラー小説の代名詞
「日本列島が沈没してしまったら、日本人はどうなるんだろう?」
そんな荒唐無稽な空想を、リアリティのある思考実験とし、読者を惹きつけるエンターテインメントに仕立てるため、小松左京は徹底的な取材を敢行している。
地震学の坪井忠二や地球物理学の竹内均の著書にあたるだけでなく、何人もの科学者をブレインとして、防災システムや社会学、情報科学にいたるまで、幅広い知識を集約。
それはもはや「取材というよりも研究」だったといわれている。
『日本が沈没する』というのは科学的にありえない大嘘ではあるが、その根拠として示されたプレート・テクトニクスやマントルの対流などの地球物理学は、当時最先端の科学的事実であり、本書によって幅広く知られ、日本人の一般教養にまでなっている。
本書は当然のように好評を博し、上下巻合わせて約400万部を販売。ベストセラー小説の代名詞的な存在となった。
それまで日陰の存在だったSFというジャンルは、本書によって一躍メジャーになったと言っていい。
昭和48年の沈没
『日本沈没』の成功について小松左京は、「世情不安とたまたまかさなって、多少世間を騒がせた」と語っている。これには謙遜も含まれているだろうが、世情不安とかさなったのは事実だ。
昭和48年といえば、関東大震災からちょうど50年。浅間山噴火が続き、西之島では海底火山が噴火、根室半島沖地震もあった。異常気象や、近海での魚類の異常行動などもあったという。
そして秋には、オイルショックが日本を襲った。
日本経済は大打撃をこうむり、高度経済成長期は終わってしまう。『日本経済沈没』の恐れも現実味を帯びていた。
バラ色の未来を夢見続けていたそれまでの反動もあってか、日本人は本書に飛びついた。
ちなみに、同時期のベストセラーには、「1999年7月に人類は絶滅する」という『ノストラダムスの大予言』などもあるが、これと本書を比べるのは、さすがに小松左京に失礼だろう。
魅力的に描かれる日本人
47年後の現在に読み返しても、本書はエンターテインメント小説としての魅力にあふれている。
SFとしてのイマジネーション、いわゆる『センス・オブ・ワンダー』はもとより、調査を進めることで日本沈没の予測が次第に確定的になっていくスリル、東京を直撃する大地震のスペクタクルなど、枚挙にいとまがないほどだ。
次々と噴火し、噴煙を上げている伊豆七島を、富士山に向けて突撃してくる縦列艦隊にたとえてみせるなど、はっと息をのむ描写も数多い。
しかしそれらは、あくまでも『お膳立て』にすぎない。
本書の白眉は、日本が沈没するという状況の中で描かれる、日本人そのものにある。
日本沈没を直観する地球物理学の異才、田所博士や、戦後育ちの『新しい日本人』の代表でもある、深海潜水艇操縦士の小野寺など、極秘プロジェクト『D計画』のメンバー。
彼らはそれぞれの想いを胸に、未曾有の危機に立ち向かっていく。
政財界の黒幕的存在である渡老人は、政府を動かして『D計画』を支援し、日本人脱出の道筋をつけていく。
現実や松本清張の小説なら悪役になるところだが、本書ではまったく違う。
そして、首相をはじめとする閣僚や、野党をふくめた国会議員、官僚たちも、それぞれに欠点を露呈しながらも、一人でも多くの日本人を救うために全力を挙げる。
派閥や党派を超えて適材を適所に配置し、支持率や利権のことなど話題にものぼらない。
一方で、名もないサラリーマンが、「子供たちに敗戦直後の苦労を味あわせない」ことを決意し、食料調達に向かう描写などもある。
登場人物のほとんどが、真摯に、懸命に、自分のすべきことに取り組んでいる。
そしてこれは、作中で語られる、日本人ならではの美徳にも通じていく。
『日本沈没』の本当の続編
小松左京は、渡老人の言葉として、日本人を『幸福な幼児』だと語る。
日本人は、地政学的にも自然環境にも恵まれた、母親のように優しい日本列島に慈しまれ、甘えてきたというのだ。美徳の数々も、その『幸福』が育んできたものだと。
小松の主眼は、『幸福な幼児』が日本列島という母親を失い、世界を放浪するとしたら、『大人の民族』へと成熟できるかどうか、というところにある。
したがって本作『日本沈没』は序章にすぎず、続編として予定していた『日本漂流(仮題)』が本編となるはずだった。
しかし、小松左京は結局、続編には取り掛かることなく世を去った。
日本人がこれから成熟していくのかという問いは、現実を生きる私たちに投げかけられたままだ。
本作の発表から47年の現在、日本人は大きな危機に直面している。
新型コロナウィルスの流行が終息したとしても、その後の経済的なダメージは、第1次オイルショックをはるかに上回ると予想されている。
日本人は、この困難を乗り越えることができるだろうか?
日本人は、あの頃よりも少しでも成熟しているのだろうか?
現実の世界においてこの問いに向き合うことが、『日本沈没』の本当の続編になるかもしれない。
イベントプランナー/劇作家
如月 伴内
ある時はイベント制作会社のプランナー。
またある時は某劇団の座付き作家。
しかしてその実体は、ちょいとミーハーな昭和ファン。