昭和のベストセラー本を令和の視点から読み返し、当時の社会に与えた影響や、現在に通じるメッセージを見出していくショート・コラム。
当時の読者であったターゲットにその時代をリマインドさせ、再読などもうながすことで、今を生きる活力を高めるきっかけを提供する。

第3回:昭和56年の一冊「なんとなく、クリスタル」

本書を読むとき、本書もまたあなたを読んでいる。
田中康夫『なんとなく、クリスタル』

賛否両論、毀誉褒貶

「この作品は斬新さで右に出るものがない。まことに才気渙発、往年の石原慎太郎と庄司薫を足して2で割った趣がある。後世畏るべしというほかあるまい」
文芸評論の第一人者といわれた江藤淳が、ここまで激賞している作品が、『なんとなく、クリスタル』だ。

その一方で本書は、「頭の空っぽな女子大生がブランド物をたくさんぶら下げて歩いている小説」、「みずみずしい心が描けていない」、「空疎なブランド小説でしかない」などと、悪しざまに罵られていたりもする。

売り上げが100万部を超え、裕福な一部の女子大生が『クリスタル族』と呼ばれるなど、一種のブームを引き起こしたが、「今どきの若い者は」と眉をひそめた年長者たちも多かったように思われる。

『なんとなく、クリスタル』とは、実のところどんな小説だったのか?

注釈442個、プラス2個

主人公は女子大生でファッションモデル。ミュージシャンの彼氏と一緒に、神宮前のマンションに住んでいる。『なんとなくの気分』を行動指針として、流行のブランドを身にまとい、話題のカフェやレストラン、ディスコに通い、彼氏以外の男とのアバンチュールを楽しんだりする。それでもたまには、将来に漠然とした不安を感じることもある。以上。

あらすじを読む限りは「空疎なブランド小説」以外の何物でもないが、本書の白眉は、『NOTES』と名付けられた、442個もの注釈にある。
本書を見開くと、左のページに小説の本文があり、右のページにはその注釈が配置されている。そのボリュームは本文と同等か、それ以上におよぶ。

注釈では、実名で登場する当時流行のブランド、音楽、店舗、地名、大学などが、事細かに解説されている。
その語り口は、ユーモラスというよりも冷笑的。話題のお洒落な店についても、サービスの低下を皮肉ったりしている。
アリスやさだまさし、島田雅彦など、彼らのファンが読んだら激怒しそうな個人攻撃も少なくない。
好き嫌いはさておき、この注釈には、本文の主人公とはまた異なる、おそらくは田中康夫本人の視点が貫かれていて、文化風俗批評として機能している。

そして、小説本文がさしたる山場もオチもなく終わると、注釈とはまた別に、取ってつけたような唐突さで、2つの資料が引用される。
人口問題審議会『出生力動向に関する特別委員会報告』と、『54年度厚生行政年次報告書(55年版厚生白書)』だ。

なんとなく、クライシス

資料が語るのは、合計特殊出生率が、1975年の1.91人から、1979年には1.71人に減少したこと。

さらに、65歳以上の老年人口比率が、1979年の8.9%から、2000年には14.3%にまで増加すると予想されていること。
それにともなって、厚生年金の保険料率(月収に占める保険料の割合)は、1979年の10.6%から、2000年には20%程度、2020年には30%程度にまで高まると予想されていること。

つまりは、これから深刻な少子高齢化が進んでいくというデータである。

ちなみに、昨年の合計特殊出生率は1.36%。これは当時の予想をはるかに下回っている。
高齢者数は3588万人。総人口に占める割合は28.4%におよぶ。
2020年の厚生年金の保険料率は18.3%だが、10%の消費税や年金受給開始年齢の引き上げなどを換算すれば、その負担は当時の予想を超えていると考えてもいいだろう。

『なんとなくの気分で、クリスタルに生きている』主人公の未来は、かくも薄暗く寒々しいものなのだ、と田中康夫は予言している、と、そんな風にも読み取れる。

たとえば作家の高橋源一郎は、本作を資本主義社会と対峙した「文明批判」だと読み、「マルクスが生き延びていたなら、彼が『資本論』の次に書いたのは、『なんとなく、クリスタル』のような小説ではなかったろうか」とまで述べている。

クリスタルな40年

少子高齢化と、それにともなう経済的な負担は、昭和55年当時から予想されていた。
予想が的中してしまったのは、この40年間に政府や行政機関がなんの対策も打ち出さなかったのか、あるいはその対策に効果がなかったためだ。
彼らは長期的な視野や展望、戦略を持たなかったのだろう。思い返せば、その場その場で、『なんとなく、気分のいいほう』だけを選んできたようにしか見えない。

そして私たちも、なんとなく、それを許してきてしまっている。あるいは、『気分のよくないほう』だからといって目をそらしている。
これは少子高齢化の問題に限った話ではない。

本作の主人公を、「頭の空っぽな」人物として嘲笑する資格が、私たちにはあるのだろうか。
私たちはまさに、本書が描く『クリスタルな生き方』をしてきたのではないだろうか。

本に『読まれる』楽しみ

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という言葉がある。
私たちはいろいろな作品や事象を認識し、解釈し、評価しているが、それは私たち自身の内面の反映にすぎないのかもしれない。
本を読む時、本もまたこちらを読んでいる、ということだ。
あらゆる作品が密かに備えている、そんな『深淵効果』というべきものが、本書では剥き出しに晒されている。

『なんとく、クリスタル』が発表されてから40年。
その歳月の中で、あなた自身が何を選び、どう生きてきたか。
本書を読んだら、何を感じてしまい、何を考えてしまうのか。
興味と勇気があるならば、こっそりと本書に『読まれて』みてはいかがだろうか。

イベントプランナー/劇作家
如月 伴内

ある時はイベント制作会社のプランナー。
またある時は某劇団の座付き作家。
しかしてその実体は、ちょいとミーハーな昭和ファン。